まなざし、家族、隔たり · 2000

エドワード・ヤン『ヤンヤン夏の想い出』評――見つめるのが早すぎると見失う人生

エドワード・ヤン監督『ヤンヤン夏の想い出』を、まなざしや家族の隔たり、日常に隠れた人生を描く台北の家族劇として読み解きます。静かな映像と音が生む、注意深く見ることの意味を考えます。

エドワード・ヤンの『ヤンヤン夏の想い出』は、台北のある家族を描きながら、その一人ひとりを教訓に還元することはない。およそ一年のあいだに、結婚式、子どもの学校生活、父親の仕事、そして家族を揺るがす危機が、ゆったりとした家庭の日々のリズムに織り込まれていく。題名は対を思わせ、ヤンは繰り返し、二重の視点へと立ち戻る。ある人が感じていること、別の人に見えていること、そしてそのあいだにある隔たり。感情の空模様が変わり続ける一方で、状況そのものはあくまで平凡なままなのが、私はとても好きだ。作品の広がりは大きいが、そのまなざしは顔やしぐさ、日々の静かな駆け引きに寄り添っている。

画面の向こうを見る

この映画を最も際立たせる発想は、幼い息子の楊楊が、人々の後頭部を写真に撮るところから生まれる。彼のカメラは、かわいらしいだけの小道具ではない。家族が見落としているものを、目に見えるかたちにするのだ。ヤンの構図も同じことをしている。窓や出入り口、鏡や映り込みが画面を分け、ある会話のそばで別の会話が続いていく。台北も単なる背景ではない。オフィスやアパート、エレベーターやネオンの街路が登場人物たちに静かに圧力をかけ、本人たちは私的なものだと思っている選択を形づくっていく。

そうした精緻さがあっても、登場人物たちは図式的には感じられない。呉念真が演じるNJには、抑制の奥に揺らぎがあり、礼儀正しさだけでは隠しきれない憧れを抱えた男を見事に演じている。ミンミンを演じる金燕玲には、か弱く内向きな重みがある。若い出演者たちは、ぎこちなさをかわいらしく演じるのではなく、演技らしさのないものとして感じさせる。イッセー尾形演じる大田氏はまた別の調子をもたらし、音楽や人生について開かれた姿勢で語ることで、家族の用心深い言葉遣いをひととき緩めてくれる。このアンサンブルは、ささやかなためらいにも意味を宿らせる。

音の風景にも惹かれる。オフィスのざわめき、交通音、キーボード、足音、音楽は、台詞と同じ倫理的な世界を占めている。ここで沈黙は空虚ではない。口にすれば部屋の空気を変えてしまうために言えないこと、その残りかすであることが多い。ヤンは場面を、わかりやすい終点を越えてなお続け、もうひと呼吸ぶんの時間から、新たな感情の角度を見つけ出す。その結果、実際に生きている時間に触れるような、稀有な感覚が生まれる。映画は意味を宣言するのではなく、意味に耳を澄ませているかのようだ。繰り返し現れる音さえも、登場人物たちが置き去りにしようとしたものを覚えているようで、街に柔らかくも絶え間ない鼓動を与えている。

注意深く見ることの代償

それでも『ヤンヤン夏の想い出』には忍耐が必要であり、その包容力が限界になることもある。長い上映時間と数多くの並行する筋立てのために、個々の場面の切迫感が薄れることがある。いくつかの関係は、内側まで開かれるというより、観察されているように感じられる。作品の均衡が、より鋭い衝突を遠ざけているように思えることもある。それでも、その抑制自体が、この映画の主張の一部なのだろう。家族の物語に整然とした展開はないし、人にとって最も大切な変化は、すぐそばにいる誰にも――変わりつつある本人にさえ――見えないことがある。

心に残るのは、注意深く見ることは倫理的な行為だという、この映画の信念だ。よく見つめても誰かの問題を解決できるわけではない。それでも、他者の人生を少しだけ謎めいたものではなくし、簡単に退けられないものにすることはできる。『ヤンヤン夏の想い出』は日常のなかに大きさを見いだす。子どもの問い、仕事上の決断、ガラス越しに垣間見える顔。そこにある美しさは、磨き上げられた距離ではない。自分の視界のすぐ外に、これほど多くの現実が存在していると気づく、その辛抱強い驚きだ。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Yi Yi
  2. Janus Films — Yi Yi
  3. Yi Yi (1999)

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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