欲望と演技 · 2007

『ラスト、コーション』レビュー:役を演じ続けることの代償

アン・リー監督『ラスト、コーション』は、スパイ任務を欲望と演技、そして見られることの危うい親密さをめぐる緊張感あふれる物語へと変える。歴史の中で揺れる、任務と生存と感情の境界を見つめる。

アン・リー監督のラスト、コーションは、ひとつの任務から始まり、やがてその任務と個人の私生活とを切り分けることが難しくなっていく。舞台は第二次世界大戦中、日本の占領下にある上海。若い女性、王佳芝は、強大な権力を持つ役人、易(イー)に接近し、暗殺するという抵抗運動の計画に引き込まれていく。任務には演技が求められるが、その周囲に生まれる感情は、脚本の中に安全にとどまってはくれない。[1]

互いを見つめる人々

私の心に残るのは、互いを見つめる人々を、映画がいかに注意深く見つめているかだ。ひと目が試されているように感じられることもある。沈黙が、言葉による宣言より重みを持つこともある。佳芝は人前で役を演じなければならないが、その役はやがて、彼女自身が自分をどう捉えるかにまで入り込んでいく。緊張を生むのは、正体が露見する危険だけではない。策略から始まった親密さが、本物になりうるという可能性もまた、危うさをはらんでいる。

アン・リー監督は、この曖昧さに息づく余地を与えている。時代を感じさせる空間は細部まで丁寧に構成されているが、俳優の背後に置かれた単なる飾りには見えない。部屋や出入り口、テーブルや人混みは、何を口にできるのか、誰になら安全に聞かせられるのかを左右しているようだ。カメラはしばしば、観客にどう感じるべきかを告げるのではなく、距離を保つ。その抑制があるからこそ、表情のごく小さな変化まで、重大な意味を帯びて感じられる。

その効果の中心にあるのが、タン・ウェイの演技だ。彼女は佳芝の冷静さに、空虚さではなく能動性を与える。周囲を測り、顔つきを調整し、いくつもの自分が衝突しないよう努める人物として演じている。トニー・レオンは、易に別種の抑制を与える。彼の静けさは読み取りにくく、その読めなさ自体が脅威の一部になっていく。二人は、優しさと支配が不穏なほどよく似て見える、張り詰めた空間をつくり出す。

親密さ、演技、そして権力

この映画は観る者に多くを求めるし、意図的に抑えたそのペースが誰にとっても心地よいとは限らない。いくつかの場面は、ただ登場人物を眺めるのではなく、その居心地の悪さを観客にも感じさせるほど長く続く。また、挑発としてだけ受け取ると、露骨な描写が映画の繊細な考えを覆い隠してしまうこともある。私にとって最も力強い読み方は、欲望が政治的な物語を解決するというものではない。むしろ欲望は、登場人物たちが義務と生存と感情のあいだに引こうとする明快な境界を、ことごとく複雑にする。映画はまた、密かな関係を取り巻く社会にも目を向けている。人が何を明かせるのか、評判が行動をどう形づくるのか、政治的な恐怖が個人の選択の余地をいかに狭めるのか。その背景があるから、恋愛は歴史から切り離されて浮遊することがない。映画の優美さでさえ落ち着かないものに感じられる。ここでは美しさが、登場人物の安全を約束することは決してないからだ。

ラスト、コーションは、演技を脱ぎ捨てることが難しくなったとき、役を演じ続ける代償を描く映画だ。他者を注意深く見つめることは、権力と切り離せるのか。そして、見られることは認められることなのか、それとも別のかたちでさらされることなのか。私は、その映像の統御の確かさと、感情の答えを安易に与えない姿勢に惹かれる。心安らぐ映画とは言えない。それでも、静かな場面が決して単純には感じられないからこそ、観終えたあとも考え続けてしまう。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Lust, Caution

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

10eKokoroについて
10eKokoro's Dreamのサイトバナー:フィルムカメラ、ノート、コーヒーのある静かな机