成人向けの題材を含む作品を扱う評論です。性的題材は映画史と映像表現の文脈から非露骨に論じています。
一九七九年二月十七日に日本で初公開された『赫い髪の女』は、日活ロマンポルノという制度の内側から、労働の町に漂う男女の距離を凝視する作品である。神代辰巳は題材を扇情へ直行させず、光造が女を拾い、女が光造の部屋に居つくという非対称な出会いを、停滞そのものの時間として組み立てた。名前や過去を十分に交換しない二人の関係は、親密さの物語であると同時に、互いを所有しきれない不安の持続でもある。日活公式が掲げる「拾った男、拾われた女」という言葉は、二人の立場がたえず反転することを簡潔に示している。[1]
雨と労働が刻む画面
中上健次の「赫髪」を原作に、荒井晴彦が脚本を担い、七十三分の短さに生活の反復を凝縮している。国立映画アーカイブの記録が示すように、製作年は一九七九年、撮影は前田米造、音楽は憂歌団であり、文学的な土と血の感触を、具体的な職場と住居の空間へ移し替える布陣が見える。物語は大きな事件を積み上げるより、部屋、道路、現場を往復し、同じ場所へ戻る。その循環は、逃走を夢見る人物の時間と、逃走できない人物の時間を同じ画面に置く。原作の文学性を説明台詞で再現せず、反復する行動と空間の手触りへ翻訳した点に、映画化の自立性がある。[2]
構図の中心にあるのは、雨に濡れた道路、ダンプカー、資材の置かれた建設現場、そして光造の狭い室内である。広い外部が自由を約束するわけではなく、むしろ車と泥と仮設の線が人を運びながら閉じ込める。人物を画面の中心へ安定して据えるより、車体や壁、窓枠の切断面に沿って視線を流し、見る側にも落ち着く場所を与えない。対して室内は親密な避難所に見えて、出入口と視線の管理を光造が握る小さな制度でもある。画面は赤い髪を風景の灰色から浮かび上がらせるが、女を神秘的な装飾へ固定しない。赤は救済の印というより、均質な町のなかで消えずに残る異物感、また男の視線が作る記号性を同時に帯びている。その色彩は、女の内面を代弁するのではなく、女を見ようとする社会の欲望まで露出させる。
音の設計も映像の停滞を支える。憂歌団の音楽、雨脚、車両の走行、作業場の金属音が会話の隙間へ入り、感情を説明する代わりに環境の圧力を残す。とりわけ沈黙は、気まずさを埋める空白ではなく、言葉にすれば関係が崩れることを知る者たちの防御として働く。音楽が場面を美しく包む瞬間にも、街の騒音は消えない。人物の疲労や苛立ちは心理描写の内側に閉じず、働く身体を取り巻く音の層へ返される。音の反復は時間を前へ進めるのではなく、同じ一日が何度も戻ってくる感覚を強める。映像と音のずれが、二人のあいだにある近さと理解不能さを同時に聴かせるのである。[1]
沈黙のなかの権力と選択
物語の倫理は、光造が女の過去を問わないことを、無垢な優しさとして扱わない点にある。沈黙は相手を尊重する余白にもなりうるが、相手の事情に責任を負わずに済む男の特権にもなりうる。さらに和子への暴力と妊娠を背景に置くことで、男同士の結束、雇用主の権力、女に残された選択肢の狭さが、同じ町の制度として連結される。孝男と和子の逃走が別の可能性として置かれるほど、光造と女の停滞は自由な選択ではなく、逃げ道の配分が不均等な社会の結果に見えてくる。作品は性をめぐる題材を刺激の消費へ還元せず、誰の欲望が許され、誰の沈黙が見過ごされるのかを問い直す。女の匿名性は自由の証明ではなく、社会が女を固有の声から切り離す仕組みの影でもある。[1]
それでも赤い髪の女を謎めいた救済者へ祭り上げず、光造も単純な被害者だけにはしない。ロッテルダム国際映画祭の神代辰巳回顧資料が、本作を神代作品の強い一作と位置づけるのは、ロマンポルノの枠を借りながら、欲望と階級の沈黙を映画の形式へ変えたからだろう。ここで残るのは、関係が成就したかではなく、関係を支える町の構造が見えてしまったという感覚である。雨、赤、鉄、声の少なさは、閉塞を説明する記号ではなく、閉塞を観客の時間として経験させる。作品を見終えた後も、画面の外へ出たはずの人物が、同じ道路と部屋を往復しているような残響が残る。成人向け映画史のなかでも本作は、題材の強さではなく、見ることの権力そのものを揺さぶる映像表現として記憶される。[3]
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
