成人向けの題材を含む作品を扱う評論です。性的題材は映画史と映像表現の文脈から非露骨に論じています。
1976年6月12日に日本で劇場公開された本作は、田中登が江戸川乱歩の迷宮を日活ロマンポルノの枠内へ移した一作である。日活の公式記録が示す七十六分のカラー・ワイド作品という条件は、物語を説明し尽くすためではなく、瞬間的な視線や空間の屈折を濃縮するために働く。短さは弱点にならず、覗く、見られる、逃げるという動詞を反復させる編集のリズムへ変わる。公開年と監督名を確認したうえで見ると、これは単なる乱歩映画ではなく、1970年代の製作制度が怪奇と成人向け表現を接続した映画史的な翻案だと分かる。[1]
屋根裏という構図
国立映画アーカイブは、本作が「屋根裏の散歩者」と「人間椅子」を組み合わせた翻案であり、大正末期の浅草を舞台に、菊川芳江の美術によって退廃的なムードを立ち上げた作品だと位置づける。ここで重要なのは、原作の筋を一つに整えることではなく、異なる物語に潜む「内側へ入りたい」という欲望を同じ建物へ集める構成である。下宿の部屋、廊下、屋根裏は、私的な生活の境界であると同時に、都市の階層を可視化する断面になる。屋根裏は隠れた自由の場ではなく、他人の暮らしを上下から管理する視線の檻でもある。重い装飾や陰影は時代再現の飾りではなく、人物が互いを所有しようとする圧力を空間に刻む。[2]
構図の中心にあるのは、屋根裏の細い通路と、そこから階下を切り取る視線である。カメラは覗き穴や隙間を思わせる限定された画面を重ね、観客を郷田三郎の位置へ誘う。しかし、その同一化は快い特権として安定しない。見られる側の生活が断片化されるほど、観客自身もまた誰かを対象にしている事実が露出するからだ。上下の配置は単なる高低ではなく、見る者と見られる者、語る者と語られる者の権力差を作る。画面の奥行きは、自由に見渡せる空間ではなく、視線が必ず誰かの境界を越える構造として設計されている。美しい画面がその差を隠すのではなく、むしろ見える形にする点に田中の批評性がある。[3]
音響はこの視線の構造を耳から補強する。蓼科二郎の音楽と木村瑛二の録音は、筋を説明する合図よりも、隣室や階下の気配を遠近として響かせる。音の反復や突然の沈黙は、屋根裏と居室の距離を縮め、見えない他者がすでにこちらを包囲している感覚を生む。森勝の撮影によるカラーの艶と、音の不穏な余白が並走することで、作品の官能性は単純な快楽に閉じない。華やかな色彩の奥に、侵入される不安、見張られる不安、見てしまった後には戻れない不安が残る。この音の設計があるからこそ、画面に映らない出来事まで観客の想像力を占め、建物全体がひそかな共鳴箱になる。[1]
退廃美と監視の倫理
物語は直線的な謎解きより、覗き見の連鎖が秩序を崩していく過程へ傾く。ミッドナイト・アイの批評が指摘するように、田中版は一つの短編を忠実に再現するのではなく、乱歩の複数の着想、とりわけ「人間椅子」に通じる閉所の妄想を取り込み、殺人計画によって断片を結び直す。探偵が謎を解いて世界を回復する物語ではなく、見る行為そのものが謎と破綻を増幅する反探偵的な運動なのである。だから出来事の因果はしばしば夢のように揺れる。その揺らぎは欠点ではなく、欲望が他者を所有しようとした瞬間、現実のルールまで変形するという主題の形式なのである。[3]
成人向け作品として本作を読むとき、性題材だけを刺激として消費する視線から距離を置く必要がある。郷田の覗きは、他者の私生活を自分の欲望の舞台へ変える行為であり、女性を含む周囲の人物を対象化する社会的な力を露呈する。田中はその支配を正当化するのではなく、退廃の魅力と、そこに混じる不快さや恐怖を同じ画面へ置く。日活ロマンポルノという産業的な枠は、表現を制限するだけでなく、限られた尺と製作条件のなかで美術、音響、俳優の身振りを研ぎ澄ます契機にもなった。本作の価値は、見る欲望を満たすことより、その欲望が誰を沈黙させるのかを観客に返すところにある。[2][3]
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
