『吸血鬼』は、筋を追うほどに現実から遠ざかる映画だ。1932年5月6日にベルリンで初上映されたフランス・ドイツ合作で、ドライヤーは吸血鬼譚を、出来事の説明よりも知覚の揺らぎとして組み立てた。何が起きたかを理解することと、目の前の世界を信じることが一致しない。その隔たりが、夢と現実の境界を崩していく。初公開時は前衛的で奇妙だと受け止められたが、いまではホラー映画の傑作として再評価されている。奇妙さは単なる装飾ではなく、観客が物語を把握する足場そのものを不安定にする仕組みであり、近づこうとするほど遠のく感覚に本作の独自性がある。[1][2]
霧の中でほどける現実
まず印象に残るのは、ルドルフ・マテの撮影による白く霞んだ画面だ。カメラの前にガーゼを置いて撮った柔らかな光が、場所の奥行きを曖昧にする。白さは視界を明るくしながら、そこにあるものを確かめる力を弱める。近くと遠くの区別が頼りなくなるため、人物と周囲の空間の距離も安定して感じられない。人物や影がどこから現れるか予測できず、画面外に潜むものまで意識させる構図が、恐怖を大声で示さない。見えない部分だけでなく、見えている部分にも確信を持てなくなる点が重要だ。霞は画面を覆うだけでなく、観客の視線を宙づりにする働きを担っている。[1]
しかも全編をロケーション撮影にしたことで、超自然的な出来事が現実の風景から浮かび上がる。風景が現実のものとして感じられるからこそ、移動する影や身体から離れて動く反射は、世界の法則が少しだけずれた感覚をつくる。身体と影、実体と反射の結びつきがほどけると、空間全体が信用できなくなる。流れるようなカメラは人物を導くというより、意思のない霊のように空間をさまよう。その運動は見るべき対象を明快に定めず、観客の注意を周囲へ漂わせる。美しさと不安が同じ運動の中にあり、滑らかに眺められることが、安心して眺められることにはつながらない。[1]
音の扱いも独特だ。撮影は無声で行われ、俳優の台詞や動物の音は後から加えられた。短く途切れる台詞、ずれを感じさせる吹き替え、ヴォルフガング・ツェラーの不穏な音楽が、画面の現実感をさらに崩していく。声は人物を身近にするより、その姿との隔たりを意識させる。台詞が途切れることで、言葉による説明も連続した理解を支えきれない。音楽の不穏さはその隙間を埋めて意味を確定するのではなく、なお解消されない不安を残す。音が場面を説明するのでなく、夢の中で遅れて届く気配になる点が魅力だ。映像と音が互いを保証しないため、聞くこともまた確かな手掛かりにならない。[1][2]
音のない夢が残すもの
演技は写実的な心理劇を目指さない。主演のジュリアン・ウェスト(ニコラ・ド・ガンズビュール)は、職業俳優らしい雄弁さを抑えた硬い佇まいで、主人公自身が夢と現実の境目に取り残されたように見せる。感情を読み取りやすく示さない身体は、観客の理解を導く案内役にならず、周囲の不可解さを受け止める存在になる。展開の因果関係をあえて薄くした進行のリズムは、物語への没入を妨げる弱点でもある。出来事のつながりを追いたいときには、間や途切れが停滞として感じられるだろう。しかし、納得によって先へ進めない時間こそが、不安を片づけずに残し、悪夢の持続力にもなっている。[1][2]
だから本作の恐怖は、吸血鬼の姿そのものより、見ている側の判断がゆっくり信用できなくなることにある。光は輪郭を、音は現実感を、物語の間は因果関係を不確かにし、それぞれが別の方向から理解の足場を削っていく。実験映画や抽象美術に近い方法をホラーへ持ち込んだ結果、古びた怪奇譚ではなく、いまも感覚を乱す映画になった。一方で、その統一された不確かさは、物語の手触りや人物への親密さを求める人には不親切でもある。説明の乏しさを無条件に長所とはできない。それでも、霧、音、間が不安を育て、見終えても容易には整理できない感覚を残す静かな傑作だ。[1]
参考資料
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