フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』は、追跡劇ではなく、暗がりのなかで語られる頼みごとから始まる。その選択から、この映画がどんな犯罪映画なのかが伝わってくる。権力が武器にたどり着くより先に、部屋や顔、恩義、家族の儀式を通して行き交う物語だ。1940年代のニューヨークとシチリアを舞台に、コルレオーネ家の内輪の世界は、自らをひとつの道徳的宇宙として示していく。そこにある静けさは安らぎではない。慎重に演じられた支配であり、どこかつねに芝居がかっている。
影と儀式が築く世界
ゴードン・ウィリスが権威をほとんど物質のように見せること。それがこの映画の優れた映像的着想だ。顔は茶色い影のなかから浮かび上がり、目は半ば隠れたまま、誰もがもうひとつの会話を胸にしまっているかのように見える。コッポラは、結婚式の明るい公の舞台とドンの薄暗い執務室とを、どちらかが偽りであるかのようには扱わずに切り替えていく。どちらも、誰が仲間に入れるのかが決まる舞台なのだ。沈黙や、向けられた顔、肩に置かれた手が、それ自体ひとつの行動になるようカメラが捉えているところに、私はとりわけ惹かれる。
マーロン・ブランドはヴィトー・コルレオーネに、柔和さと威圧感が驚くほど入り交じった魅力を与える。部屋を測るように見渡しながら、愛情深く響く声で話せる男だ。アル・パチーノは異なる調子で人を引きつける。その抑制された演技によって、注意深く見つめること自体が、変化の途上にあるように感じられる。ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、ダイアン・キートンをはじめとする出演者たちは、理解されるより先に、息づく家族の姿をつくり上げている。声が幾重にも重なることで、この家には暮らしの手触りが生まれるが、無垢さは感じられない。ささやかな反応にさえ、受け継がれた掟が宿っているようだ。
ニーノ・ロータの音楽は、この矛盾をいっそう深める。トランペットの旋律は、直前の映像が何を伏せたかによって、哀歌にも、結婚式の歌にも、警告にも聞こえる。またこの映画は、食べ物や衣服、扉、そして人で埋まった食卓を、飾りではなく物語を語る細部として捉えている。そうした質感が、この一大叙事詩にひときわ親密な感触をもたらす。暴力は、ぽつんと切り離された突発的な出来事として描かれない。登場人物たちが当たり前のものとして受け止める、忠誠と義務の習慣から生まれてくる。音楽はその習慣を、優しさと恐怖のあいだに漂わせる。
家族の神話に潜む見落とし
気がかりなのは、この閉ざされた男たちの世界に対する映画の魅惑が、ときに感情の射程を狭めてしまうことだ。女性たちは家族が続いていくうえで欠かせない存在でありながら、その知るところは物語の周縁に置かれがちだ。一方、男たちはもっとも深い内面と複雑さを与えられている。洗練された神話はまた、犯罪者の権力を、その犠牲者が経験しえたもの以上に一貫したものとして見せてしまうことがある。技法が並外れていても、こうした限界は見過ごせない。この距離感そのものが、映画の見落としているものの一部なのだ。
それでも『ゴッドファーザー』が心に残るのは、継承を単なる筋書き上の仕掛けではなく、あらゆる身振りの意味が変わることとして描いているからだ。祝福には脅しが忍び、家族写真は、これから失われる人々を記した地図のようにも見える。コッポラの演出は、歴史を見渡せるほど広く、それでいて返事の前のひと息を捉えるほど近い。描かれる世界を正当化しなくても、忠誠を強いられるとき愛は何に変わるのかを、映画がどれほど精緻に問いかけているかは認められる。その悲劇は、説明する台詞だけでなく、選択を通して訪れる。
参考資料
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