日本ホラー名作20選 · 見ることの呪い · 1998

『リング』、見たものが家に帰ってくる

一本のVHSテープが、家庭のテレビと見るという行為そのものを不穏な装置へ変えていく。中田秀夫の『リング』を、媒体の物質感と静かな恐怖から読み直す。

『リング』は、観客を驚かせるための怪異映画である以上に、見るという行為そのものを不安定にする映画だ。1998年公開、中田秀夫監督のこの作品は、鈴木光司のベストセラー小説をもとに、強い怨念のこもったビデオテープが人々を呪いの連鎖へ巻き込む恐怖を描く。[1] しかし、ここで怖いのは幽霊がどこから来るかより、何気なく再生ボタンを押した瞬間から、日常の見え方が変わってしまうことだ。恐怖は画面の中に閉じず、見る人の生活へ静かに席を移す。しかも、その移動は劇的な侵入ではなく、いつもの部屋にいつもの機械があるという事実を少しだけ異様にすることで起こる。

テープが持つ物質の恐怖

物語の入口にあるのは、見た者が一週間後に死ぬという噂の一本のテープである。[2] この設定は単純なのに、映画は説明を急がない。手がかりを拾うたび、真相へ近づくというより、見てはいけないものを見続ける自分の好奇心が露出していくからだ。中田の演出は、怪異を大声で宣言せず、人物が沈黙したまま画面を見つめる時間を伸ばす。その余白が、観客に「次に何か起きる」と予告するのではなく、「もう起きているのではないか」と感じさせる。謎解きの速度よりも、知りたい気持ちが自分から逃げられなくなる速度を選ぶ映画なのである。

テープという媒体の選択が、この映画を古びさせない。BFIが指摘するように、VHSは大きく、内部のテープが見える、触覚的な物体であり、DVDやストリーミングのような抽象的なデータとは違う。[2] だから再生される映像は情報ではなく、手元に置ける異物として迫ってくる。巻き戻しや停止には指の操作が必要で、機械の待ち時間さえ不安の一部になる。いまや遠い道具に見えるVHSが、当時の家庭にあった身近さごと、画面の向こうからこちらへ滲み出してくる。データなら消去や複製という言葉で距離を取れるのに、この黒い箱には、触れた指先へ責任が戻ってくるような重さがある。

テレビは居間の家具であり、家族の時間を埋める明るい窓でもある。そこへ、映画館の暗闇から切り離された映像が入り込む。BFIは、ビデオが映画を見る経験を公共の場から家庭へ移し、私生活に不自然で危険なものを持ち込む不安を生むと論じている。[2] 『リング』の画面はまさにその境界を測る。カメラが部屋の隅や廊下を見つめると、安心のために作られたはずの空間が、見られている場所へ反転する。怖さは閉じ込められることではなく、家の中にすでに開いた穴があることから来る。画面の明滅は外の世界を遮るのではなく、外から何かが届くための細い入口に見えてくる。

家庭に開くスクリーン

リズムにも、じわじわと締まる輪のような律動がある。会話と調査が進む場面では情報を几帳面に積み、ふいに静止した顔や暗い奥行きを長く置く。編集は観客の視線を誘導しながら、見落としたかもしれないものを頭の中で再生させる。国立映画アーカイブの記録には、撮影・林淳一郎、音楽・川井憲次とある。[1] 画と音は派手に競い合わず、湿った空気のように同じ不安を保つ。松嶋菜々子らの出演者も、恐怖を誇張するより、理解しようとする日常の身振りを崩さない。[1] その平静さが、異常を現実の手触りへ引き寄せる。

国立映画アーカイブは本作を、1990年代に実験を重ねたジャパニーズ・ホラーの水準を広く観客に知らせた作品として位置づけている。[1] BFIも『リング』を、日用品に近いVHSから恐怖を立ち上げたJホラーの節目として振り返る。[2] それでも本作の強さは、時代を代表したという肩書きより、見る行為をやめられない人間の弱さを、物語の仕組みそのものに組み込んだ点にある。テープを再生するたび、こちらもまた呪いの装置を動かしてしまう。『リング』は、忘れられた媒体の底から、いまも「見るとは何か」と静かに問い返す。新しい機器が恐怖を薄めたのではなく、私たちが恐怖を受け取る場所を変えただけなのだ。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. 44リング
  2. When videotapes were sinister – 20 years of J-horror classic Ring

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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