『ポゼッション』は、アンジェイ・ズラウスキーが監督・脚本を担った1981年のフランス=西ドイツ合作である。日本ではスティングレイ公式が『ポゼッション』の題名と原題Possessionを掲げ、124分のHDリマスター版として紹介している。[1] BFIの作品紹介では127分、ベルリンを舞台にした夫婦の崩壊と憑依の物語として整理される。[2] この二つの上映時間は、それぞれの紹介に即して区別しておきたい。夫婦の危機と超自然的な恐怖が重なる本作では、日常の関係に生じた亀裂が、身体ホラーの不安と切り離せなくなる。
崩壊を撮るカメラ
冒頭からカメラは人物を安定した場所に置かない。移動と揺れが会話の間を裂き、家庭という空間を逃げ場のない舞台へ変えていく。構図の中で落ち着ける位置を失う人物を見るうちに、観客もまた、二人のどちらに距離を合わせればよいのか分からなくなる。BFIが指摘する「猛烈なエネルギー」の移動撮影は、恐怖を対象の出現だけに頼らず、関係そのものの不安定さとして体感させる。[2] ただし、この過剰さは観客を選ぶ。感情の振幅が大きすぎて、繊細な心理劇を期待すると疲労が先に立つ。画面の切迫感が、人物の心情を考える余地を狭める瞬間もある。
音響もまた、画面の外へ不安を押し広げる。音楽と生活音が自然な背景に収まらず、人物の呼吸や沈黙まで緊張の一部にしてしまう。公式クレジットに音楽担当としてアンジェイ・コジンスキーが記されるとおり、[1] ここでの音は旋律を添えるより、壊れかけた結びつきの脈拍に近い。呼吸は言葉にならない圧迫感を伝え、沈黙は会話の途切れではなく、相手から応答が返らない時間として重くなる。音があるときもないときも、二人の隔たりを意識させる点が重要だ。静かな場面にも完全な休息がなく、異形の気配を心理の内側へ戻していく。
イザベル・アジャーニの演技は、説明より先に身体を動かす。視線、歩幅、声の跳ね方が一瞬ごとに変わり、アンナを単純な被害者にも怪物にも固定しない。サム・ニールもまた、理解しようとする夫の焦りを、言葉より硬い姿勢で見せる。変化し続ける身体と硬さを帯びた身体の対照は、互いを理解したいという意志だけでは埋まらない隔たりを作る。BFIはアジャーニの演技をカンヌ主演女優賞と結びつけて評価している。[2] 二人の衝突は愛情の反対ではなく、愛情を所有したい欲望の破綻として響く。相手を見つめる行為さえ、理解と拘束のどちらにも見える危うさを含んでいる。
憑依が残す余韻
テンポは直線的な恐怖の増幅ではない。夫婦の言い争い、探る時間、突然の身体的な逸脱が不均衡に並び、観客の感覚を何度も組み替える。編集のリズムを通して、出来事を理解する速度と感情に押される速度がずれていく。そのため物語の因果を追う快楽は薄いが、崩壊がいつから始まったのか分からなくなる感覚は強い。BFIがこの作品を「忠実さとアイデンティティの寓意」と呼ぶのも納得できる。[2] 私には、異形の正体を解く映画というより、正体を求める行為そのものが関係を壊す映画に見えた。相手について確かめようとするほど、相手の姿も自分の立場も揺らいでしまう。
ホラー、家庭劇、政治的寓話のどれか一つに収めようとすると、この映画の息苦しい自由さを失う。壁で分断されたベルリンは背景にとどまらず、互いの内側へ届かない二人の距離を可視化する。都市の隔たりと夫婦の隔たりが重なることで、親密な関係の閉塞は家庭の内側だけに収まらなくなる。BFIでは本作が2022年のSight & Sound批評家投票で243位に入り、複数の批評家・監督から票を得たことも確認できる。[2] きれいに理解できない欠点を抱えたまま、それでも映像と音と演技が感情の残骸を残す。『ポゼッション』は、憑依を超自然現象ではなく、愛が形を失うときの現実として迫ってくる。
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
