オリヴィエ・アサイヤスの『パーソナル・ショッパー』は、パリで著名人の買い物を代行する女性が、亡くした双子とのつながりを求める物語だ。2016年のカンヌ公式選出作で、アサイヤスは監督賞を同率受賞した。[2]筋立てを先回りして説明するより、働く身体と喪失した心のずれを、現代の生活空間に置いてみせる作品である。他人の欲望に応じて品物を選ぶ仕事と、自分自身の切実な願いを確かめられない状態との隔たりが、物語の芯をなす。日常をこなせることと、心がそこに居合わせることは同じではない。そのずれが、超自然的な不安に生活の重みを与えている。
日常に紛れ込む交信
画面の魅力は、服やガラスや移動する都市を華やかな背景にせず、主人公の不在感を映す薄い膜として扱う点にある。連絡手段は手紙ではなくスマートフォンで、画面に現れる文字が親密さと危うさを同時に帯びる。BFIも本作を、喪失や未完の家族の問題が彼岸から届く近年の超自然ホラーとして位置づけている。[1]物の表面は目に届くのに、そこから主人公の内面へは容易に近づけない。ガラスの隔たりや衣服の外見性は、触れられる世界にも他者との距離が残ることを感じさせる。対して文字は直接呼びかけてくるが、相手の姿を保証しない。視覚的な近さと心理的な遠さが、同じ画面の中でせめぎ合う。
音響設計は、驚かせる大きな効果音よりも、通知音や沈黙の長さを不安の単位に変える。何かが見えたかどうかを断定しない編集が、観客を主人公と同じ待機状態に置く。恐怖は異界から押し寄せる力というより、返信を待つ日常が少しずつ現実感を失う感覚として立ち上がる。通知音は待機を終わらせる合図でありながら、新たな疑いの始まりにもなる。沈黙も単なる音の欠如ではなく、次の連絡に耳を澄ませる時間へ変わる。編集が確証を急がないぶん、観客は情報の内容だけでなく、それが届くまでの間隔に敏感になる。このリズムが、身近な通信を不穏な経験に変えている。
その中心でクリステン・スチュワートは、感情を説明しすぎず、視線と呼吸の揺れで孤独を保つ。買い物をする職業上の身振りと、私的な交信に取りつかれた姿が同じ身体に同居し、演技そのものが境界線になる。カンヌ公式も彼女とラース・アイディンガーらの出演を記録している。[2]感情を抑えた演技は、主人公が何も感じていないことを意味しない。むしろ、仕事の動作を続けながらも注意が別の場所へ向かうような揺らぎが、内面の負荷を伝える。視線や呼吸を読み取ろうとする観客も、彼女の気持ちを完全には確定できない。その読み切れなさが、交信の曖昧さと響き合う。
曖昧さを引き受ける演技
一方で、後半の長い逡巡は、怪異の答えや感情の決着を求める観客には焦らしすぎるだろう。ジャンル映画としての速度を意図的に崩し、アートフィルムの空白へ退くため、緊張が薄れる箇所もある。ただ、その不均衡こそ、喪失を合理的に処理できない時間の形でもある。待つことが恐怖を育てる前半の感覚と、待つこと自体が負担になる感覚は、必ずしも滑らかにつながらない。曖昧さが問いを深める一方で、物語の手がかりを遠ざける面もある。そのため、この停滞を主題に即した表現として認めても、すべての空白が同じ強度を持つとは言い切れない。
フランスCNCの記録では、作品はフランス・ドイツ製作、105分、2016年12月14日公開の長編として登録されている。[3]幽霊を確定させる映画ではなく、確かめたい気持ちが日常を変質させる映画。静かな画面と不安定な通信の向こうに、愛する人を失った後も続く生活の手触りが残る。交信を望むことは、不在を受け入れられない苦しさであると同時に、つながりを手放したくない願いでもある。本作の余韻は、その両面を簡単に切り分けないところにある。怪異の有無だけを判断の中心に置かず、確証のないまま働き、待ち、生活する身体へ目を向けることで、静けさの切実さが見えてくる。
参考資料
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