『PERFECT BLUE パーフェクトブルー』という題名は、青い空のような清潔さより、そこに映った顔がもう一つの顔へ滑っていく感触を残す。公式の作品表記と今敏の長編アニメーション初監督作であることはVAPの案内にも確認できる。[3] 1997年の作品として語られる一方[2]、日本での劇場公開日は1998年2月28日。[1] この一年のずれは、作品が生まれた年と、観客の前に立った年のあいだに、すでに本作らしい境界線が引かれているようでもある。
アイドルの顔が増殖するとき
物語の入口は、アイドルグループを脱退した未麻が新人女優へ転身するという、きわめて現実的な選択だ。ところが、本人の望みとは別に過激なグラビアやテレビドラマの仕事が舞い込み、周囲の関係者を標的にした殺人事件まで起き始める。[1] ここで怖いのは事件の犯人を当てることではない。未麻が仕事を選ぶたび、その選択を「未麻らしさ」として採点する視線が、画面の外からも内側からも強くなることだ。女優になるとは、新しい自分をつくることなのか、それとも他人が決めた自分を演じ直すことなのか。
本作の核にあるのは、偽物が本物を脅かすという単純な構図ではない。BFIが指摘するように、映画はスターと観客の双方を名声への依存に結びつけ、ドッペルゲンガーの悪夢としてそれを映し出す。[2] 未麻の過去のアイドル像は、アルバムの中にしまわれた思い出ではなく、いまも彼女の身体を測る物差しとして戻ってくる。ファンが愛した無垢なイメージと、本人が引き受けようとする欲望や職業性。その二つが同じ顔に重なるから、画面の人物はいつも少しだけ他人に見える。映画は「本当の私」を救い出すのでなく、私という言葉そのものが誰かの視線でつくられる過程を冷たく見せる。
恐怖のリズムを決めるのは、説明よりも編集だ。現実、夢、そして未麻が出演するテレビドラマ「Double Bind」の場面が互いに入り込み、観客は一度ほどけたはずの出来事を、別の角度からもう一度受け取ることになる。[2] 目覚めたと思った直後に、同じ場面の続きではなく、同じ不安の別テイクが差し出される。その反復は謎解きのための仕掛けというより、未麻の足元から「いま」を奪うためのテンポだ。カットが一つ進むたび、現実が確定するのではなく、現実らしい層が一枚ずつ貼り替えられる。だから観客は、登場人物と同じように、画面を信じることにも疑うことにも疲れていく。
夢と編集のあいだ
画面はしばしば平面的で、背景の人々は顔のない切り抜きのように置かれる。けれど、その薄い世界には突然、極端に細密な漫画的イメージが侵入する。BFIが述べるこの平面性と視覚的な跳躍は、単なる作画の癖ではなく、未麻の現実感そのものの比喩になっている。[2] ポップな衣装やステージの明るさは、日常を照らす光ではなく、商品としての自己を光らせる照明だ。そこへ歌声や歓声の反復、電話や機械の乾いた気配が重なると、華やかさの底にある孤独が輪郭を持つ。かわいらしさと残酷さを別々の調子で描かず、同じ色面の中で隣り合わせにすること。今敏の演出は、その近さから逃げ道をなくす。
公開から時間がたったいま、本作の「見られること」をめぐる不安は、むしろ身近になった。BFIも、スターと観客の依存がインターネットによって増幅されるという映画の先見性を捉えている。[2] 画面の中の未麻は、誰かに監視される被害者であるだけでなく、他人の期待を自分の鏡として使わざるをえない人でもある。だから『パーフェクトブルー』は、アイドル文化や芸能界を告発するだけの映画では終わらない。自分を説明するために、私たちがいくつものプロフィールや役割を身につける、その静かな習慣を映している。最後まで輪郭を固定しないまま、映画は問いを残す。見られている私の奥に、選び直せる私が本当にいるのか、と。
参考資料
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