天才、帰結、認識 · 2023

『オッペンハイマー』評――天才がその帰結を制御できなくなるとき

クリストファー・ノーラン監督作『オッペンハイマー』を、断片的な構成、緊張をはらんだ音響、科学の高揚と道徳的責任の不穏な結びつきに注目して読み解くレビュー。

クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』は、歴史を発見からその帰結へと続く一本道として描かない。むしろ、動き回る粒子、政治的な忠誠、個人的な欲望、そして現実のものとなっていく兵器――相容れないいくつもの光景を、ひとつの心が同時に抱えようとするように感じられる。この不安定さそのものを映画の形式にしたところに、私は感心する。場面は思考がまだまとまりきらない圧力を帯びて現れ、反復を通して次第に力を増していく。まるで記憶という実験室で、どのイメージも絶えず姿を変えているかのようだ。題材は途方もなく大きいが、ドラマは何度も、解釈という壊れやすい営みに立ち戻る。

動き続ける心、形をなす世界

この映画の大きな強みは、音響と映像のリズムにある。ルドウィグ・ゴランソンのスコアはめったに落ち着かず、弦の音は震え、脈打ち、会話に覆いかぶさる。思考そのものまで電気を帯びているようだ。そのざわめきに対し、ノーランは物質の細部と抽象のあいだを行き来する映像で応える。チョーク、塵、水、目、火花、膨張する光。カラーとモノクロの時間軸の違いは、単なる装飾ではない。視点を肌ざわりへと変え、生きられた経験と、その公式な記録との差を感じ取るよう私たちに促す。沈黙さえも設計されているように思えたかと思うと、ふいに個人的なものになる。

中心にいるキリアン・マーフィーは、オッペンハイマーを魅力的で、捉えどころのない静けさをたたえた人物として演じている。細められた視線は、誰にも聞こえない議論に絶えず耳を澄ませている人を思わせる。顔のほんのわずかな変化に、魅了される心、虚栄心、恐れ、疑念が表れる。ロバート・ダウニー・Jr.もまた、対照的なあり方で隙のない演技を見せ、政治的な立ち回りをほとんど肉体的なものに感じさせる。二人の場面は、緊張のもとで交わされる礼儀からできている。差し出された言葉が吟味され、返されるときには、その言葉の刃が研ぎ澄まされている。マーフィーは、安易な共感へと傾けることなく、内面を目に見えるものにしている。

これはまた、協働を描く映画でもある。ただし、その想像力がとりわけ強く惹かれるのは、唯一無二の天才だ。ロスアラモス計画は、競い合う知性、現実的な妥協、驚くほどの集中力が交錯する仮の街となる。ノーランは、アイデアが物体へと変わる高揚感を伝えながら、才能は無垢だなどとは装わない。その結果生まれるのは、安易な教訓に落ち着くのではなく、道徳に鋭く目を向けた映画だ。登場人物たちが両者を切り離したがるときでさえ、達成と責任を同じ画面に置き続ける。仕事は共同で進められるが、その重荷は何度も一人の顔にのしかかる。

密度が隔たりへと変わるとき

気になるのは、この映画がときに、密度の高さを親密さと取り違えていることだ。名前や組織、圧縮された政治的な説明があまりに速く通り過ぎるため、何人かの女性や脇役は、十分に知られた人物というより、物語上の役割にとどまってしまう。絶え間ない勢いが、人間関係に息をさせるための間まで平板にしてしまうこともある。説明をやめて、顔や部屋、あるいはサウンドトラックに走る衝撃に委ねるとき、この映画は、頭の中に歴史の見取り図を保つよう求めるときよりも、はるかに心を揺さぶる。

私の中に残るのは、ひとつのスペクタクルではなく、誰もそれを名づけ終える前から帰結が押し寄せる、そのありさまへの映画の眼差しだ。『オッペンハイマー』が惹きつけられているのは、アイデアが生みの親の手を離れ、世界へと入り込む瞬間である。そこで制御とは、人が自分に言い聞かせる物語になる。この洞察が、ドラマに不穏な余韻を与えている。見応えのある映画だが、ときに自らの重要性を背負い込みすぎてもいる。それでも最良の場面では、知的な高揚と道徳的な恐怖が切り離せないものとして感じられる。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Oppenheimer: Nolan’s dazzling expressionistic flourishes bring this sombre chamber drama to life
  2. Christopher Nolan’s Oppenheimer

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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