日本ホラー名作20選 · 飢えと欲望 · 1964

『鬼婆』、草の海で欲望が鬼になる

戦乱の湿地で生き延びる二人の女を通して、飢えと欲望が人の輪郭を変えていく過程を、草のざわめきと鬼の面から読み解く。

「鬼婆」という題名は、最初から人間を怪異の側へ押しやる。一般社団法人日本映画製作者連盟のデータベースで確認できる正式題は『鬼婆』、日本では1964年11月21日に公開され、監督・脚本は新藤兼人である。[1] しかしこの作品は、題名の恐ろしさをすぐには説明しない。まず見せるのは、暮らしが崩れた場所で、今日を越すために身体を動かし続ける人間の姿だ。民話の仮面を借りながら、そこにあるのは遠い昔の怪談ではなく、飢えと欲望が人の輪郭を少しずつ変えていく時間である。

葦原が映す生存の形

舞台は戦乱に荒れた中世日本の風の強い湿地。貧しい年長の女と息子の嫁は、道に迷った侍を殺し、その持ち物を売ってかろうじて生き延びている。そこへ戦から戻った近隣の男が現れ、三人の危うい均衡に、欲望と嫉妬と怒りが入り込む。[2] この筋立ての巧さは、事件を大きくすることより、食べることと愛されることが同じ場所で競り合うように見せる点にある。誰かが悪いから地獄になるのではない。生きたいという願いそのものが、他者を押しのける力へ変わるのだ。

新藤兼人がつくる恐怖は、闇の奥から飛び出してくるものではない。風に波打つ草の海が、人物を隠し、また唐突に吐き出す。白黒の2.39:1画面、そして日本映画製作者連盟が記録するシネマスコープの横長の視野は、湿地を背景ではなく、欲望が往復する巨大な装置に変えている。[1][2] 横切る身体は一瞬だけ見え、次の瞬間には草の同じ色へ沈む。広いはずの画面が逃げ場を与えない。その矛盾が、作品の怖さを怪物の登場より先に始めている。

音は画面の外から湿地をふくらませる。林光の音楽は、静かな情緒を添えるというより、人物の呼吸を追い越すような激しさを持つと紹介されている。[2] 国立映画アーカイブの記録にも音楽・林光、編集・榎寿雄の名が残る。[3] 草を踏む気配、走る足、急に切り替わる沈黙が、台詞より先に関係の変化を知らせる。カットは出来事を整然と説明するためではなく、欲望が理性を追い越す瞬間に観客の足場を外すために働く。音楽と編集がつくるこの不安定な拍子が、画面の中の人々を、逃げながら同じ穴へ戻ってくる生き物に見せる。

鬼の面の向こう側

だから『鬼婆』の戦乱は、英雄の歴史を飾る背景ではない。戦争に男たちが出ていく一方で、残された者は飢え、働き、死者の残した物を換金する。映画が描くのは「戦争が人を鬼にする」という単純な教訓ではなく、平時にも隠れている所有欲や独占欲が、非常時にはむき出しの生存本能になる過程だ。Criterion Collectionも本作を、原始的な感情、暗いエロティシズム、そして人間の深い欲望を呼び起こす民話として紹介している。[2] その言葉どおり、怪異は外から来る罰ではなく、共同体の底に沈んでいた感情が姿を得たものとして立ち上がる。

乙羽信子の年長の女と吉村実子の若い女は、同じ草原に身を置きながら、同じ未来を見てはいない。二人の表情や歩幅のずれは、親密さと監視が隣り合う関係を、説明抜きで伝える。[2] そして、いわくつきの鬼の面が現れると、恐怖は顔を隠す道具であると同時に、顔の内側にあったものを露出させる道具になる。結末の形をここで語る必要はない。ただ、この映画を見終えて残るのは「誰が鬼か」という答えではなく、生き延びようとする手がいつ他人を傷つける手へ変わったのか、という遅れてくる問いだ。『鬼婆』は、草のざわめきの中にその問いを置き、画面が暗くなったあとも、こちらの呼吸に合わせて鳴らし続ける。カメラはその問いに答えを与えず、風と草のざわめきへ預ける。その静けさが民話を過去に閉じず、見る側にも自分の欲望の形を問い返してくる。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. 『鬼婆』のキャスト・スタッフ・公開日 | 映連データベース
  2. Onibaba
  3. 国立映画アーカイブ 所蔵映画フィルム検索システム「鬼婆」

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台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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