日本ホラー名作20選 · 通信と時間の恐怖 · 2004

『着信アリ』、未来から鳴る声の輪郭

未来の自分から届く死の予告を、携帯電話の着信音と沈黙のリズムから読み解く。三池崇史監督『着信アリ』の、日常に入り込む恐怖を見つめるレビュー。

三池崇史監督の『着信アリ』は、2004年1月17日に日本で劇場公開された作品だ。[2] 自分の携帯電話に、自分の番号から、三日後の自分の死を知らせるメッセージが残る。[1] 女子大生・由美の友人に届いた着信から、予告は次の誰かへ渡っていく。[1] けれど、この映画の怖さは「死ぬ時刻を知る」ことだけにない。日常のいちばん薄い膜――会話の途中、笑いのあと、ポケットの中――そこへ未来が音を立てず侵入してくる。怪異は遠い場所から来るのではなく、こちらが毎日触れている道具の形をしている。電話は誰かとつながるためのものなのに、ここではつながりが断絶の予告になる。

手のひらに届く予告

『着信アリ』の画面は、闇をただ黒く塗りつぶさない。合コンの明るさ、街の人の気配、携帯の小さな液晶。その生活の表面に、ごく薄い異物が混ざる。カメラは「そこにいる」と断言する代わりに、視線の端やフレームの奥へ不確かさを置く。だから観客は、画面の中心を見ているつもりで、同時に周辺を探してしまう。見えるものより、見落としたかもしれないものが場を支配する。橋から落ちるという出来事も、単なるショックではなく、日常の地面が一瞬だけ足元からほどける感覚として残る。[1] フレームは安全な窓ではなく、何かがこちらへ抜け出してくる薄い境界になる。恐怖の姿を見せる前に、見るという行為そのものを疑わせるのだ。

音の使い方は、画面に映らない未来を現在へ連れてくる。着信音は合図であると同時に、まだ起きていない出来事の輪郭だ。再生ボタンのあとに来る声、途切れた呼吸、誰も話さない時間。その空白が、派手な効果音より長く耳に残る。音楽を遠藤浩二、編集を島村泰司が担った本作では、音とカットが「次に何が起きるか」を説明するより、時間の順序そのものを不安定にする。[2] 着信の瞬間を引き延ばし、受けるまでの数秒を観客の身体に刻む。電話を取るか、取らないかという小さな選択まで、編集は大げさにしないまま運命の分岐に変えていく。日常の動作が、静かな儀式へ変わる。

2004年という時期に、携帯電話はすでに身近な生活道具だった。映連の紹介が、本作の恐怖の入口を「身近なツールとなった携帯電話」と説明するのは的確だ。[2] 映画のなかでは、画面と音声と履歴に限られた装置として現れるため、情報の不足が想像を増幅する。届く情報が少ないほど、受け手は空白を自分で埋める。英語圏の映画カタログが本作を、テクノロジーに接続された現代的なフォークホラーとして扱うのも頷ける。[3] 受信する側の身体だけが、未来の出来事を先に知ってしまう。民俗的な呪いが電波を通って広がるとき、怖いのは新技術ではなく、古い恐怖が新しい器を見つけてしまうことだ。

声が残る場所

由美を演じる柴咲コウは、恐怖に取り乱す人ではなく、友人の死を前にしてなお理解しようとする人として画面を支える。弘を演じる堤真一の存在は、怪異を解く鍵をすぐに差し出すのではなく、由美の隣に別の時間を流す。[1] 二人のあいだにあるのは、恋愛的な近さより、同じ不確かな現実を見ようとする連帯だ。柴咲の表情には、恐怖を克服する強さより、理解できないものを理解しようとする粘りがある。堤はその粘りを、声を荒らげずに受け止める。そこに本作の人間味がある。呪いの連鎖を追うほど、映画は事件の外側にいる観客へ、誰かの声を聞き捨てないことの重さを手渡す。

『着信アリ』は、携帯電話を題材にしただけのホラーではない。自分の声が自分の未来から返ってくるという仕掛けを通して、「私は私の時間を所有しているのか」と問いかける。通知を消しても、記録を消しても、声は聞いたという事実だけを残す。三池崇史は、怪異を遠ざけて安心させるより、生活のすぐ隣に置いたまま、観客に耳を澄まさせる。[2] 本作が残すのは、次の着信への恐れだけではない。それは着信という出来事が終わっても、聞くことをやめられないという感覚だ。沈黙のなかにも、まだ誰かの時間が鳴っているのではないかという、静かな余韻である。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. 着信アリ | JFF Theater
  2. 『着信アリ』のキャスト・スタッフ・公開日 | 映連データベース
  3. ONE MISSED CALL

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台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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