欧州ホラー映画名作10選 · 欧州ゴースト映画 · 影と疫病が映す不死者の恐怖 · 1922

吸血鬼ノスフェラトゥ

F・W・ムルナウの1922年版『吸血鬼ノスフェラトゥ』を、影の撮影、無声映画のリズム、マックス・シュレックの異形の演技から静かに読み解くレビュー。

1922年のドイツ映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、F・W・ムルナウが監督し、マックス・シュレックらが出演した無声の吸血鬼映画だ。ドイツ表現主義の古典としてBFIが紹介し、原作『ドラキュラ』の無許可翻案だったことも記録されている。[1] 怪異を説明しすぎず、日常の風景へ侵入させる姿勢が、いま見ても新鮮に残る。恐ろしさは異常なものの姿だけで完結せず、それを受け入れてしまう空間との関係に宿る。見慣れた世界が安全の根拠にならなくなるため、観客は怪物の出現だけでなく、何も起きていない画面にも疑いを向ける。

影がつくる身体

この作品の強さは、セットの歪みだけに頼らない撮影にある。森や山、海の広がりを現実の空間として置き、その中を異物のような影が進む。BFIも、様式化された室内より実景に恐怖を移した点を指摘している。[1] 光は安心を与えるものではなく、輪郭を削り、身体を記号へ変える。風景の広さと影の異質さの対比は、怪物を近くで見せることとは別の圧迫感を生む。画面に距離や余白があっても、それが逃げ場に見えるとは限らない。身体の細部より輪郭が意識されることで、恐怖は一人の存在から空間全体へ染み出していく。

シュレックの演技は、感情を細かく告白するタイプではない。硬い姿勢と遅い身振りが、人物というより習慣化した死の存在感をつくる。動きの乏しさは単なる無表情ではなく、人間なら自然に示すはずの反応との隔たりを際立たせる。観客がその内面を理解しようとしても、身体は容易に手掛かりを渡さない。そのため恐怖は叫び声より、画面の端に残る静けさから生まれる。人間側の反応が相対的に薄く見える瞬間は弱点だが、怪物を心理劇の主人公にしない選択とも読める。感情移入の乏しさが不気味さを支える一方、人間の切実さまで遠ざける危うさもある。

音のない映画だからこそ、視線の停止と編集の間が耳に届くようだ。伴奏付き上映では音楽が印象を導くが、画面自体は急がず、移動と待機を積み重ねて不安を育てる。ここで重要なのは、出来事の数よりも、次の動きが始まるまで観客が画面を見続ける時間だ。静止に近い印象と動きの対照が、わずかな変化を大きく感じさせる。現代の速いホラーに慣れていると中盤の進行は平板に感じられる。それでも、この遅さが侵入の避けがたさを観客の時間へ移している。展開を待つ焦れったさと、待つしかない不安が重なるところに、無声の時間の強みがある。

無声の時間と余韻

恐怖の中心にあるのは、血の刺激よりも、病が広がる社会の想像だ。異国への移動、閉ざされた家、増殖する不安が結びつき、吸血鬼は個人の怪物であると同時に共同体の脆さを映す。家の閉鎖性と移動の広がりは対照的だが、どちらも安全な境界が保てるのかという疑いにつながる。影による身体の曖昧化も、恐怖を一つの姿に限定せず、周囲へ広げる表現として主題と響き合う。その広がりは個々の心理を細かく追う面白さとは異なる。BFIの2022年批評家投票では第196位に選ばれており、映画史上の影響だけでなく、現在も批評的に再発見される作品だとわかる。[1]

英国BBFCの記録では、1922年製作の本作はおおむね80分の版としてPG扱いで、「軽度の暴力とホラー」と案内されている。[2] つまり、この記録で確認できる版は成人向け指定を売りにする映画ではない。ただし、刺激の強度が控えめであることと、不安の余韻が弱いことは別だ。輪郭の異様さや待機の長さは、直接的な刺激とは違う仕方で観客に残る。ドイツの映画記録が示す1922年ベルリン初公開と、プラーナ・フィルムの出自を踏まえると、これは派手な怪奇譚というより、影と時間で不死者の気配を残す映画だ。[3]

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Nosferatu (1922)
  2. Nosferatu, A Symphony Of Horror
  3. Nosferatu

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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