アイデンティティと共感 · 1998

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』レビュー:他者に定められた始まりから、自分で選ぶ未来へ

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』を懐かしさとともに振り返る。アイデンティティやクローンをめぐる問い、バトルの奥にある思いがけない優しさを掘り下げます。

劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲を見返すと、まっすぐな冒険物語の中に、これほど強い感情が込められていたのかとあらためて感じる。ミュウツーは遺伝子実験によって生み出され、自らの存在を研究計画のように扱った人間たちに反旗を翻す。そしてサトシや仲間たちを含むポケモントレーナーを呼び集め、やがて力比べだけでは済まない試練に挑ませる。バトルの底にあるのは、アイデンティティをめぐる問いだ。誰かが目的を定めて自分を作ったのなら、その目的を受け入れなければならないのだろうか? [3]

誰かに決められた始まり

この問いを託されたミュウツーは、物語の初めから強大な存在として描かれている。ミュウツーが戦いに勝てると証明する必要はない。物語が関心を向けるのは、勝利だけではなぜ足りないのかということだ。その怒りには理由がある。自分がどんな存在になりたいかを決める機会を得る前に、作られ、名を与えられ、価値を判断されてしまったのだ。この葛藤は、幼い観客にも驚くほど伝わりやすい一方で、大人にはスペクタクルの奥にある孤独を感じ取る余地を残している。

ミュウツーのポケモン図鑑ページでは、全国図鑑番号150、エスパータイプのポケモンとして紹介されている。 [4] こうした分類は参照するうえで役に立つが、この映画がもっとも強い印象を残すのは、分類の枠を越えていくときだ。登場人物たちは、ポケモンをオリジナルとコピー、勝者と敗者、強者と弱者に分けようとする。物語はそうした区分に、何度も揺さぶりをかける。どのように生み出されたかで、その存在の価値が決まるわけではない。

アニメーションには、作られた時代ならではの勢いがある。今の基準で見ると動きにぎこちなさを感じるところもあるが、手描きの映像には、今でも好きだと思える率直さがある。アリーナや対決の場面はテレビシリーズの一話よりも大きなスケールを感じさせる一方、おなじみの登場人物たちの関係性が、物語を親しみやすいものにしている。大がかりな見せ場と、中心にある考えのシンプルさとの対比も魅力のひとつだ。子ども向けの冒険でありながら、あらゆる問いに気の利いた答えを出したふりをせず、ひとつの深刻な問いに向き合おうとしている。

思いやりに満ちた核

率直すぎる展開もいくつかあり、ドラマチックな台詞に頼りすぎるところもある。感情を揺さぶる場面の中にはあまりにも有名なものがあり、映画がどうそこにたどり着いたかより、見たときの反応のほうを先に思い出してしまうこともある。それでも、この作品の誠実さを否定するのは難しい。共感することを恥じていないのだ。苦しんでいるのがコピーであっても、その痛みは本物だと訴え、どちらが優れているかを証明するより、互いを傷つけないことに意味があると示している。

だからこそ、懐かしさを抜きにしても、私はこの映画を楽しめる。バトルは物語を包む外側にすぎず、心に残るのは、他者に押しつけられた始まりが物語のすべてでなくてもいい、という考えだ。ミュウツーの旅は、ただ最強のポケモンになるためのものではない。強さとは何を意味するのか、自分で決めるための旅でもある。ミュウツーの逆襲には粗さもあるが、思いやりに満ちた核が、公開当時を越えてこの冒険に命を与えている。誰が勝ったかよりも、誰に選ぶ自由があったのかを考えながら、私はこの映画をあとにする。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Pokémon: The First Movie - Mewtwo Strikes Back (1998)
  2. Mewtwo

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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