日本の成人向け映画史20選 · 文芸映画 · 欲望・語り・関係の権力 · 1964

欲望は誰のものか――増村保造『卍』の画面と言葉

谷崎潤一郎の小説を増村保造が映画化。スコープ画面と関西の声が、親密さをめぐる語りと権力の揺らぎを映し出す1964年大映文芸映画の批評。

成人向けの題材を含む作品を扱う評論です。性的題材は映画史と映像表現の文脈から非露骨に論じています。

『卍』は、谷崎潤一郎の小説を増村保造が初めて映画化した、大映東京のカラー文芸映画である。日本での劇場公開日は1964年7月25日で、製作年や後年の回顧上映ではなく、この日を本稿の「年」とする。[1]作品は関西の生活空間を舞台に、光子と園子、その夫たちの関係を、ひとつの恋愛譚に閉じ込めず、語る者が次々に主導権を奪う記録として組み立てる。成人的な題材を扱いながら、見世物的な刺激より、欲望を言葉にした瞬間に生じる責任と不信が核心だ。

スコープ画面の緊張

本作の構図は、スコープの横長画面を二つに割るように人物と空間を配置する。[1]一方の人物が発した視線や言葉を、もう一方の人物が受け取り、拒み、別の意味へと反転させるため、画面そのものが関係の綱引きになる。近接した顔の緊張と、室内に残された距離が同じ一枚に並び、誰かが誰かを所有したという結論をつねに不安定にする。色彩も装飾の華やかさを保証するのではなく、洗練された暮らしの表面に亀裂が走る瞬間を可視化する。増村の演出は、情念を静かな心理説明へ溶かさず、切り返しと身振りの衝突として前景化する。

音の設計では、関西の言葉が重要な役割を果たす。国立映画アーカイブは、本作が増村にとって初の谷崎作品であり、関西を舞台にした数少ない現代劇で、関西風の言葉が張り詰めた人間関係に明るさとユーモアを加えると説明している。[2]その明るさは緊張の反対ではない。軽い調子、間のずれ、言い直しが、登場人物の本音と社会的な体裁の差を露呈させるからだ。音楽が感情を先回りして泣かせるのではなく、声の速度と沈黙の長さが関係の温度を測る。笑いが生じるたび、観客はこの関係が悲劇だけではなく、交渉と演技の場でもあることを知らされる。

叙事の面で注目すべきは、出来事の連鎖よりも、語りが真実を作り替えていく仕組みである。園子と光子の関係は、外から眺める一つの恋愛事件ではなく、誰が誰を理解し、誰が説明する権利を持つのかという争いとして進む。英国映画協会の紹介が指摘するように、二人の関係には双方の男性伴侶も介入し、三者の均衡は予想外のねじれを見せる。[3]増村は説明を積み上げて納得させるより、告白、疑念、反証を短い応酬に折り重ねる。だから物語の反転は単なるどんでん返しではなく、言葉を信じたい欲望そのものが揺らぐ瞬間になる。

欲望をめぐる権力と語り

権力の観点から見ると、本作は女性の欲望を解放の記号へ単純化しない。園子の執着も、光子の自己演出も、夫たちの介入も、それぞれが相手を定義し直そうとする力として描かれる。女性同士の親密さが前景に出る一方、婚姻、財産、世間体、芸術をめぐる制度は、彼女たちの選択をつねに評価し、交換可能な役割へ戻そうとする。ここで重要なのは、映画が誰かの支配を情熱的な美談にしないことだ。支配の影が差す場面は、魅惑の演出ではなく、関係の非対称性を示す批判的な装置として読むべきである。光子と園子は被害者か加害者かという二択に収まらず、愛すること、演じること、語ることが同時に相手を拘束する複雑な位置に置かれる。

1964年の『卍』は、古典文学の映画化を通じて、当時の大映東京の商業映画文化と、増村保造の過剰な人間観察を接続する。国立映画アーカイブが示すスタッフ編成とカラー、九十分の上映形態は、作品を後年の成人映画の制度へ遡及して分類するのではなく、劇映画として当時の大映東京の商業映画文化の中に置く手がかりになる。[2]同時に、今日の観客には、性的少数者をめぐる表象を当時の言葉だけで消費せず、欲望を管理する社会の仕組みとともに読み直す責任がある。『卍』の強度は、刺激の強さではなく、画面、声、告白、制度が互いを裏切り続ける設計にある。最後まで残るのは、愛が純粋か不純かという判定ではなく、他者を理解したいという願いが、どの瞬間に所有の論理へ変わるのかという問いである。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. 卍
  2. 上映会情報映画監督 増村保造
  3. 10 great films about ménage-à-trois relationships

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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