アクション、サバイバル、協力 · 2015

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』評:スペクタクルが協働を知るとき

ジョージ・ミラー監督作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、荒野の追走劇を、権力と生存、そして協力をめぐる触覚的で人間味あふれる物語へと変えていく。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、世界から説明がすでに尽きてしまったかのように始まる。水とエンジンと恐怖が支配する砂漠でマックスは捕らえられ、フュリオサ大隊長は世話を任された五人の女性とともに、その秩序から走り去る。ジョージ・ミラーがこの前提を説教にすることなく、いかに素早く観客に伝えるかに感心する。映画は、政治性を語るために動きを信頼している。隊列を組む車両、交わされる視線、武器に伸びる手。そのひとつひとつが、誰が支配され、誰が選択しているのか、そしてその選択がどれほど短くしか続かないのかを物語る。

ありえない速度に人間の尺度を与える

この映画を並外れたものにしているのは、単なるスピードではなく、その精密さだ。ミラーと撮影監督ジョン・シールは、機械が地平線を駆け抜けるあいだも、顔をフレームの中心近くに置く。その抑制によって、混沌には人間の尺度が生まれる。シャーリーズ・セロン演じるフュリオサは、用心深く、身体感覚に根ざした知性をまとっている。彼女の沈黙は空白ではなく、計算のように感じられる。トム・ハーディのマックスは征服する英雄というより、警戒心の強い生存者だ。どちらの演技も相手を圧倒しようとしないからこそ、二人のぎこちない協力関係には力が宿る。

このアクションには、めったにないほど明快な倫理性がある。車両はデジタル空間を重さもなく漂うのではなく、揺れ、擦れ、横転し、身体と選択の痕跡を残していく。実物ならではの質感が危険を触れられそうなほど近くに感じさせる一方、編集は空間を驚くほど明瞭に保つ。ウォー・リグがどこへ向かい、誰が追っているのか、そしてどんな小さな機械の不調が次の一秒を左右するのかを、私は見失わずに追える。どれほど派手なスタントにも、実際的な問いが潜んでいる。ここでどうすれば生き延びられるのか。

音もまた、この映画の想像力に欠かせない。エンジンは獣のようにうなり、金属は負荷に耐えかねてきしみ、音楽が差し挟まると追走劇は儀式のような様相を帯びるが、祝祭めいたものにはならない。荒々しい騒音と不意の静けさの対比によって、登場人物たちは象徴ではなく人間として感じられる。プロダクション・デザインにも、同じ緊張がある。グロテスクな衣装や即席の車両は、廃物から築かれた社会を示すと同時に、権力がいかに自らをスペクタクルで飾り立てるかを明らかにする。荒野が鮮烈なのは、その表面に社会的な意味が刻まれているからだ。

問いを未解決のままにする代償

それでも、『怒りのデス・ロード』の凝縮された作りは、限界にもなりうる。この世界は、歴史や宗教、生態系、隊列の外にいる人々の暮らしについて問いを誘うほど豊かだが、映画はそうした問いをしばしばフレームの端にとどめる。最小限の説明は非常事態のようなリズムに合っているものの、完全に複雑な人物へと掘り下げられたかもしれない登場人物が、象徴的な存在のまま残ることもある。絶え間ない追跡は、感情に変化をつける余地もほとんど残さない。疲労感は意図の一部だが、観る体験が心を引き込むというより、身体にこたえるものに感じられることもある。

私の心に残るのは、逃げることと自由になることは同じではない、という映画の主張だ。進む方向が重要なのだ。道は人々を暴力から遠ざけることもあれば、その暴力を生み出した構造へ連れ戻すこともある。ミラーはこの考えを、演説ではなく反復と中断を積み重ねた、筋骨たくましく、ほとんど音楽的な形式にしてみせる。スペクタクルが協力の言語になるとき、私はこの映画に最も価値を感じる。複数の身体と道具、そして信頼の行為がひとつになって、壊れやすい車両を動かしていく。その美しさは緻密に作り込まれているが、決して冷たくはない。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Mad Max: Fury Road (2015)
  2. Review: Mad Max: Fury Road

10eKokoroが書いています

台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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