スウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』は、いじめられている少年と、隣に越してきた少女の出会いを、吸血鬼譚のかたちで見つめる。原題はLåt den rätte komma in、監督はトーマス・アルフレッドソンで、2008年製作の作品だ。製作国にはスウェーデン、ノルウェー、フランスが記録されている。出会いを恐怖の入口にすると同時に、孤独から抜け出す可能性として扱う点が、この作品の軸となる。相手を知りたい気持ちと、知ることへのためらいが重なり、親密さそのものが安心だけでは済まない問いを帯びる。[3]
凍える画面の親密さ
まず印象に残るのは、雪の白さよりも、その白さを沈黙に変える撮影である。薄暮の青みと集合住宅の平板な空間が、少年の閉塞を説明しすぎずに伝える。白と青は清潔さや穏やかさより、ぬくもりの届きにくさを感じさせる。画面の余白も、人物を包む余裕ではなく、他者との隔たりとして目に残る。空間の平板さに対して、二人の距離の変化が小さくても重みを持つのは、背景が感情を代弁しすぎないからだ。Time Outも、撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマの薄暗い映像が、親密さを柔らかくしながら暴力の瞬間を不穏にすると評している。[2]
音もまた、恐怖を大声で押しつけない。足音や室内の気配が画面の余白に残り、ゆっくりした場面のあとに短い衝撃が来る。小さな音に耳を澄ます時間が、何も起きていないように見える空間への警戒を育てる。その緩急は、吸血鬼映画の見慣れた刺激を思春期の不安へ戻す。編集のリズムも、衝撃の強さだけでなく、そこへ至る待ち時間を恐怖の一部にする。ただし、静けさが常に緊張へ結びつくとは限らない。静かな時間が長いぶん、展開の反復を遅く感じる人がいる点は、この作品の小さな弱点だろう。抑制の美点と停滞の感覚は、ここでは隣り合わせにある。
主演の二人は感情を叫ばず、視線と間で距離を測る。カーレ・ヘーデブラントの脆さと、リーナ・レアンデションの読みにくい静けさが並ぶことで、友情とも恋とも言い切れない関係が生まれる。感情を明示しない演技は、人物を空虚にするのではなく、相手の反応を待つ時間に重心を置く。少年の傷つきやすさは少女の静けさによって際立つが、その静けさもまた、安心と不安のどちらにも受け取れる。二人の間を一つの感情で埋めないことが、関係の切実さを保っている。批評でも中心演技の無表情さが、怒りや欲望を本人たちにも理解しきれないものとして残すと評価された。[2]
孤独が選ぶ連帯
この映画の怖さは、怪物が外から来ることより、孤独な子どもが誰かを必要とすることにある。吸血鬼というジャンルの比喩を、貧困やいじめ、暴力への空想と接続しながら、単純な被害者と加害者には整理しない。傷ついた者への共感が、その者の望むものを無条件に肯定することにはならない点が重要だ。連帯は救いである一方、相手を必要とする切実さによって、判断の危うさも伴う。作品はその両面を解消せず、観客にも安易な善悪の区分を許さない。曖昧さは人物への理解を難しくもするが、それが雪景色の冷たさの奥にある人間的な温度になる。
英国BBFCでは映画館版が2009年1月16日、家庭用版が同年3月4日にいずれも15指定となり、強い流血を伴う暴力と言語が理由に挙げられた。[1]これは英国の当該版についての分類であり、作品全般を成人限定とする根拠ではない。ただし本稿は成人向け分類を売りにせず、傷つきやすさと連帯の選択を見つめる北欧ホラーとして受け取りたい。暴力の強さは静かな映像と対立するのではなく、親密さの脆い輪郭を浮かび上がらせる。遅い歩みに距離を感じる余地は残るが、恐怖と優しさを容易に切り離せないことこそ、この作品の余韻を支えている。
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
