『怪談』は、小林正樹が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の再話文学から四つの物語を選び、ひとつの長い夢に組み直した映画だ。[1] 日本での劇場公開日は1965年2月27日、監督は小林正樹、脚本は水木洋子と記録されている。[1] けれども、ここで怖いのは幽霊が現れる瞬間より、幽霊の側から見ればこちらの現実こそ一時的なものにすぎない、という静かな反転である。怪異を説明して安心させるのではなく、最初からそれを世界の手触りとして置く。その大胆さが、題名の「怪談」を古びた説話ではなく、いま目の前で起きる知覚の事件に変えている。
書割の空に、現実を置き去りにする
四話構成の『黒髪』『雪女』『耳無し芳一の話』『茶碗の中』は、筋を競う短編集ではない。[1] 一話ごとに人の欲、約束、恐れが少しずつ別の形へ移り、前の話の余韻が次の話の入口を暗くする。小林は驚かせるために編集を急がず、視線が画面に留まる時間をたっぷり取る。だから三時間近い長さは、物語を引き延ばす重さではなく、現実の時計から切り離されるための儀式になる。怪談のリズムとは、出来事の速さではなく、逃げ道が消えていく遅さなのだ。
その遅さを支えるのが、現実らしさを捨てた画面である。BFIが指摘するように、映画の大半は飛行機格納庫内に組まれた巨大なセットで撮られ、塗られた冬空、人工の湖、対称に植えられた木々が、意図的に人工的な世界を形づくる。[3] クライテリオンもまた、巨大なスタジオ・セットと歌舞伎、文楽の要素を結びつけた様式を、この作品の「美と恐怖」の同居として捉えている。[2] 書割の空は背景ではない。それは登場人物の心よりも先に、世界には裏面があると告げる幕であり、俳優の身体を絵の一部へ変える。奥行きは自然の深さではなく、虚構がどこまで世界を支配できるかを測るためにある。露骨な作り物だと見抜いたまま、そこから出られなくなる。
音も同じく、自然発生の気配を装わない。クライテリオンによれば、音響は全面的にアフレコされ、細部まで制御されている。[2] そのため風や足音、語りや楽の響きは、画面の外から偶然届くのではなく、画面そのものが発する命令のように聞こえる。歌舞伎や文楽を映画の技法へ移した、という指摘も、この「見せる」ことと「聞かせる」ことの一致として実感できる。[2] カットが次の情報を急いで運ぶのではなく、音の余白が視線を縛る。そこで恐怖は、叫び声ではなく、沈黙がまだ終わらないという感覚になる。聞こえないものまで音の秩序に組み込まれるから、観客の想像力も自由な補完ではなく、作品の規則に沿って働く。
語られる怪異、残される身体
小林正樹は『人間の條件』のような社会意識の強い作品で知られた監督だが、クライテリオンが述べるように、本作はその写実的な方向から大きく離れた試みでもあった。[2] それでも『怪談』は現実から逃避する映画ではない。仲代達矢が演じる木こりを含む人物たちは、欲望や保身を抽象的な悪ではなく、重さのある身体として抱えている。[3] 演技は感情を大きく説明せず、定められた構図の中で一度だけ揺れる。その小さな揺れが、壮麗な美術に人間の弱さを戻してくる。
四つの物語に共通するのは、幽霊が人間の悲しみを慰める存在ではなく、約束や言葉の綻びを記憶している存在だということだ。BFIは各話に道徳的な因果があり、霊の世界は人間の絶望にほとんど無関心だと整理する。[3] だから結末を先回りして説明するより、画面の美しさがこちらの倫理を少しずつ曇らせていく過程に身を置きたい。美しいものと恐ろしいものが対立せず、同じ筆致から生まれるとき、映画は「怖い話」を超えて、見ること自体の責任を問う。見る者はその因果の外に立てない。鑑賞とは、幽霊を眺めることではなく、自分の視線が何を欲し、何を見落とすかを試されることなのだ。『怪談』は、忘れたつもりのものが消えずに残る場所を、色と音と沈黙で建てた作品である。
参考資料
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