日本ホラー名作20選 · 復讐と帰還の境界 · 1968

薮の中の黒猫――帰る家を失った者たちの夜

戦乱に焼かれた家から立ち上がる黒猫の怪異を、復讐と愛、白黒の光と打楽器のリズムから読み解く。新藤兼人が描く、帰還できない者たちの夜。

1968年2月24日に公開された新藤兼人監督の薮の中の黒猫は、国立映画アーカイブの記録にも残る白黒の時代怪異譚である。[1][2]戦乱に荒れた京のはずれで、母と嫁が落武者たちの暴力にさらされ、焼け跡から黒猫とともに別の時間が立ち上がる。ここで大切なのは、怪物が人間の世界へ侵入するのではなく、人間の暴力が怪異のかたちを借りて戻ってくることだ。新藤は恐怖を遠い伝承に閉じ込めず、家という最小の生活空間に置く。だから冒頭の火と灰は、物語の導入である以上に、守られるはずだった日常の破壊そのものに見える。その灰は死者を消すのではなく、帰還するための舞台を準備する。

火と灰から始まる怪異

母と嫁は、ただ復讐するための「化け猫」ではない。彼女たちは、奪われた身体と暮らしを取り戻すため、男たちの欲望が組み立てた秩序の外側から帰ってくる。[2][3]女性たちの姿は、加害者の物語に押し込められた声を、ゆっくりと画面の中心へ戻す。侍を英雄的な輪郭で飾らず、空腹と欲望に引きずられる群れとして見せることで、映画は「怪異」を生んだ側の現実を先に露出させる。[3]復讐は勧善懲悪の答えではない。愛されたいという願いと、血を求める誓いが同じ胸の内に残り続ける、その矛盾こそがこの映画の息苦しい美しさである。

映像は白黒の濃淡を、善悪の印ではなく、触れられない距離の測定に使う。クライテリオンが指摘する「きらめくワイドスクリーンの白黒」は、[3]竹藪の細い幹、霧の向こうの門、白い衣の女を同じ画面の中でゆっくりとずらしていく。[3]明るい場所にいるはずの顔が、次の瞬間には闇の一部になる。羅城門は境界であり、家は帰還の場所であるはずなのに、どちらも安全を約束しない。[2]カメラが派手な驚きを急がず、奥行きの中に人影を置いて待つからこそ、観客は「見えた」ことより、見えないものがまだ残っていることに怯える。その間が、恐怖を一瞬の刺激ではなく、長く居座る気配へ変えていく。

音と編集も、画面の怪しさを説明するのではなく、身体の側から増幅する。国立映画アーカイブの記録では編集を榎寿雄、音楽を林光が担っている。[1]クライテリオンが触れる林の打楽器的なスコアは、[3]歩みや戸の開閉を現実の音から切り離し、夜そのものに脈を与える。場面の切り替えは説明のために急がず、同じ所作を少しずつ変奏する。その反復が、恋情を儀式へ、儀式を罠へと変えていく。母と嫁を演じる乙羽信子と太地喜和子は、[2][4]静かな身振りの奥に、生者の記憶と異形の規則を同時に抱えている。

白黒の闇が刻む帰還

歴史劇の衣装をまといながら、薮の中の黒猫が見ているのは、戦場の勝敗ではなく、戦争が家の内部へ持ち込む無名の損傷である。クライテリオンの解説が示すように、物語の背景には武士たちが徘徊する長い内戦があり、その暴力は名誉の物語からこぼれ落ちた者へ向けられる。[3]だから百姓出身の男が武士の名を与えられる展開も、身分上昇の爽快さには着地しない。[3]名を変えても、彼の帰る家と、そこで待つ者たちの時間は元に戻らない。怪猫退治の任務は、結局、制度が自分の生んだ傷を処理しようとする身振りに見える。歴史の大きな言葉が、ひとつの家の沈黙に負けていく瞬間である。

結末の核心には触れないでおきたい。この映画の黒猫は、闇から飛び出す脅かし役というより、焼けた家の前に置き去りにされた記憶の輪郭だからだ。愛と憎しみ、欲望と喪失、生者と死者の境目は、物語が進むほどはっきりするのではなく、同じ黒白の画面に重なっていく。新藤兼人は怪談を、恐怖を消費するための異国趣味にせず、誰が声を奪われ、誰がその声を「妖怪」と呼ぶのかを問う場所にした。見終えた後に残るのは、驚きの余韻だけではない。竹藪の奥から聞こえるかすかな気配が、正義と呼ばれてきたものの暗部を、静かにこちらへ返してくる。その気配は、画面の外へ消えるのではなく、見る者の倫理のそばに残る。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. 国立映画アーカイブ「薮の中の黒猫」所蔵映画フィルム検索システム
  2. 薮の中の黒猫
  3. Kuroneko: The Mark of the Cat
  4. YABU NO NAKA NO KURONEKO (1968)

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台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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