『地獄』は、題名が約束する場所へ一直線に進む映画ではない。1960年に新東宝が製作し、中川信夫が監督・脚本を担った作品であり、BFIにも『JIGOKU (1960)』として記録されている。[1][2]むしろこの映画が見つめるのは、地獄が遠い異界ではなく、日常の床板の下からゆっくりせり上がってくる感覚だ。明るい道、軽い会話、若さの自信。そのどれもが、次の瞬間には罪の入口へ反転する。恐怖は怪物の姿で現れる前に、人間の判断の小さな歪みとして画面に置かれている。
現世の底で鳴る音
入口に立つのは大学生の清水四郎である。彼は悪魔的な友人・田村に導かれるように罪を重ね、因果応報の先で地獄へ落ちていく。[1]英語圏の紹介が、若い神学の学生によるひき逃げ事故と、その後を追う良心、さらに地獄への道として要約するのも、この映画の二重の構えをよく示している。[3]ただし、四郎を単純な悪人にしてしまえば作品の不穏さは失われる。彼は弱さを他人のせいにし、他人はその弱さを利用する。責任の所在が人から人へ移るたび、罪は個人の内側から関係そのものへ広がっていく。
前半の現実世界は、まだ社会の規則が働いているように見える。それでも画面の奥には、すでに説明のつかない圧力が沈んでいる。中川は出来事を大仰な因果の連鎖として並べながら、編集の切れ目に取り残される顔や、ふいに空白になる時間を重く残す。観客は「何が起きたか」だけでなく、「見なかったことにした瞬間はいつか」を問われるのだ。仏教の地獄に、ゲーテの『ファウスト』やダンテの『神曲』の意匠を重ねる構想は、単なる図解ではない。[1]異なる物語の地下水脈がひとつの悪夢へ合流し、罪を説明する言葉そのものが、次第に頼りなくなっていく。現実の場面から異界の予兆へ移るとき、カットは橋を架けるより、足元を抜き取る。観客の理解が追いつかないまま、画面だけが先に罪の形を見せる。
だから後半の地獄は、現実から切り離された見世物としてだけは受け取れない。炎、針、血の色といった極端なイメージは、罪人を罰する装置であると同時に、現世で見落とされた痛みを可視化する舞台でもある。Criterionが本作を、現世で人を誘惑する欲望と、それに屈した者を待つ死後の苦悶を描くジャンル横断的な作品として紹介するのは的確だ。[3]怪談、犯罪映画、宗教画、そして安価な見世物の大胆さが同居する。その不均衡こそ魅力であり、上品に整えられた恐怖では届かない領域へ、映画を一気に押し出している。
地獄はどこから始まるか
映像の色は、地獄を写実的な地下空間にするより、記憶のなかで過剰に残る染みのように広げる。赤は血の情報である前に、画面全体へ侵入する感情の温度だ。明暗の落差が大きいほど、人物の輪郭は肉体から影へ、影から罪の記号へ変わっていく。渡邉宙明の音楽も、画面に説明を加えるというより、場面と場面のあいだに逃げ道のない脈動を置く。[1]編集はその脈動を断ち切り、また別の場所で再開する。滑らかな心理描写を期待すると粗さに見える部分が、むしろこの作品では重要だ。悪夢は整然と進まない。飛躍し、反復し、突然こちら側へ顔を向ける。四郎を演じる天知茂も、堂々とした青年の姿から、言い訳の居場所を失った身体へ少しずつ変わる。[1]大声より、視線の揺れや立ち尽くす時間が、その崩れを伝える。
『地獄』が今も残すものは、地獄の造形の強烈さだけではない。新東宝の怪奇映画路線を締めくくる作品と位置づけられる一方、[1]その視線は古典の再現に閉じず、日常の倫理が崩れる速度をむき出しにする。[3]ここで問われるのは、誰がどの罰を受けるべきかという裁判ではない。自分の罪を自分だけのものとして抱えられない人間が、他人の人生へどのように地獄を分配するか、ということだ。中川は救済を甘い出口として用意せず、それでも画面の底に、人が他者を見直す可能性をかすかに残す。恐ろしいのに、見終えたあとに残るのは絶望だけではない。地獄は遠い場所ではなく、だからこそ、そこへ至らないための視線が必要なのだ。
参考資料
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