『ジョーズ』でまず私の心をとらえるのは、サメではなく、その周囲に広がる空白だ。スティーヴン・スピルバーグは、明るい休日の浜辺を疑念の場へと変える。水面は、私たち自身の予感を映し出すスクリーンになる。アミティ島を舞台に、警察署長マーティン・ブロディは、大型のホホジロザメの出現によって夏の平穏が脅かされるなか、町がその平穏を守ろうとする姿を見つめる。設定はシンプルだが、不安の描き方は驚くほど精緻だ。これは、注意を向けること、そして注意がいかにたちまち恐怖へ変わるかを描く映画である。
水を恐れるようになる
スピルバーグの見事な仕掛けは、見るという行為を身体で感じさせることだ。泳ぐ人々が画面を横切り、カメラはその下を滑るように進む。水平線の向こうに隠れているのは、動物というより思考のように思える。ジョン・ウィリアムズの二音からなる旋律は、ただ危険を告げるのではない。危険にリズムを与え、繰り返し押し寄せる小さな圧力となる。サメの姿がはっきり見える前から、映画は何気ない動きさえ疑うよう私に教えている。子どもの水しぶきが突然、警告のように思え、浜辺は無防備な場所に感じられる。
ロイ・シャイダーが演じるブロディは、地に足がつき、どこか内省的だ。威勢のいいアクションヒーローではなく、世間の信頼、地元の商売、個人的な恐怖にそれぞれ引き裂かれながら、責任ある決断をしようとする男である。その抑制が、サスペンスを人間的なものにする。リチャード・ドレイファスはフーパーに神経質な知性を与え、ロバート・ショウはクイントに粗野で予測のつかない重みをもたらす。彼らの異なる気質によって、やがて始まる狩りは、自然との単なる対決ではなく、性格同士の衝突に感じられる。それぞれが、支配することについて異なる考えを抱えている。
この映画は、恐怖を生み出す社会の仕組みにも、並外れて目を配っている。アミティの役人たちは、観光への脅威が町のアイデンティティへの脅威でもあるため、浜辺を開けておこうとする。人々は安全について、日程や金銭、体裁の言葉で語る。現実的な問題に名前をつければ、もっと恐ろしい問題を遠ざけられるかのように。『ジョーズ』がこの対立を、善良な市民と悪い指導者という単純な図式にせず、不快なものとして残している点を私は評価したい。サスペンスは、そうした道徳的なためらいから生まれる。
サスペンスが冒険へ変わるとき
この映画の最も力強い形式上の選択は、同時に最も明白な限界でもある。サメは姿の見えない存在であるときにこそ、最も効果を発揮する。物語がより定型的な冒険の構成へと進むにつれ、それまでの謎めいた感触がいくらか薄れるのは避けられない。機械仕掛けの効果は、背びれの暗示や編集がふいに引き締まる瞬間ほど説得力がないこともある。緊張を素早く進める必要がある場面では、人間の登場人物がやや類型的になることもある。それでも、雰囲気はすでに十分に力を発揮しており、展開の変化が映画の視覚的な知性を損なうことはない。
私の心に残るのは、恐怖は証拠が現れる前から始まる、というこの映画の理解だ。『ジョーズ』に絶え間ない見せ場は必要ない。待ちわびる人々、落ち着かないカメラ、音楽の途切れる一瞬、そして見慣れた場所が予告もなく変わりうるという認識があればいい。その技法は親しみやすい。恐怖が根源的なものだからだ。しかし、最良の場面は粗雑な手法ではなく、細やかな構成によって作られている。沈黙や表情、そして見えないものにこれほどの重みを託す大作映画を、私は称賛したい。その信頼こそが、この映画を今も生き生きとさせている。
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
