動く家、変わる自分、誰かをいたわること · 2004

『ハウルの動く城』評:動き続ける家

10eKokoroが『ハウルの動く城』を、変わり続ける自分や不安定な住まい、誰かをいたわる営みを描いた、手触りのある反戦ファンタジーとして読み解きます。

『ハウルの動く城』は、自分はもう平凡な人間になってしまったと思い込む少女から始まる。ソフィーは帽子屋で静かに働いていたが、魔女の呪いで年老いた姿に変えられ、ハンサムな魔法使いの動く城を目指すことになる。よくあるおとぎ話の筋立てに聞こえるが、宮崎駿はそれをもっと奇妙で、手触りのあるものにしている。この映画が関心を寄せるのは魔法の説明よりも、周囲の人々の目に映る自分が変わるとき、自分自身の感覚がどう揺らぐかということだ。

矛盾を寄せ集めて築かれた城

城そのものが、この映画でもっとも忘れがたい発想だ。煤にまみれ、がたがたと音を立てるその姿は、相容れない人生を寄せ集めて組み上げた生き物のように見える。扉を開ければ異なる風景が広がり、廊下は家庭的でありながら、どこか落ち着かない。動くことがそのまま個性になるデザインが、私はとても好きだ。これは洗練されたファンタジーの乗り物ではなく、重荷であり、避難所であり、雑然とした家庭でもある。機械のうなりと久石譲の流れるような音楽が物語に鼓動を与え、驚きさえ、動き続けるために懸命に働いているかのようだ。

ソフィーの変身は、年齢を冗談の種にせず、アニメーションが年を重ねることを自在に描く機会にもなっている。姿勢や声、活力は場面ごとに変わり、ときには同じ姿のままでも移り変わる。倍賞千恵子は、その変化に繊細さと確かさを与えている。ソフィーは年上に見えるから急に賢くなるのではない。行動することをいとわなくなるのだ。この違いが映画の感情的な核を形づくる。ここで勇気とは、大きな決意を宣言することではなく、世界がわけのわからないままでも、誰かを気にかけ続けるという実際的な選択として現れる。

その周りでハウルは、ひとつの印象にとどまることを意図的に拒む。魅力的で、芝居がかっていて、おびえやすく、しばしば身勝手だ。そのそばにいる人々は、彼の気分の揺れを次々と仕事に変えていく。木村拓哉の演技はハウルに落ち着かない華やかさを与え、英語吹替版はまた異なる、よりあからさまにコミカルなリズムをもたらす。この対照は興味深い一方、映画の調子が分かれて感じられることもある。二人の恋愛は、互いに気遣う関係としてなら説得力があるが、脚本が十分に積み上げる前に感情の飛躍を受け入れるよう求める場面では、やや弱くなる。

驚きが戦争の霧に出会うとき

宮崎の反戦の思いは、筋立てだけでなく風景にも表れている。飛行機や軍服、炎、破壊された街並みが牧歌的な色彩に割って入る。それでもこの映画は、争いをわかりやすい善悪の図式に置き換えようとはしない。もっとも美しいイメージにさえ、傷の痕が残る。惜しいのは、後半の展開が圧縮されたように感じられることだ。政治的な危機や個人の変化、おとぎ話の論理が互いに押し合い、動機がぼんやりしたままの人物もいる。それでも、その曖昧さは単に解消すべき欠点ではなく、この映画ならではの奇妙な空模様の一部でもある。

私の心に残るのは、不安定な材料からでも家は作れる、というこの映画の信念だ。扉や食事、頑固な約束、誰かが帰ってこられる場所から。映像は豪華だが、もっとも深い喜びは静かなところにある。思いやりが少しずつ部屋のあり方を変えていく、その様子だ。『ハウルの動く城』は、宮崎作品のなかで最も筋の通った物語とは言えないかもしれないし、自らの強い着想を追い越して寄り道することもある。それでも、矛盾は生き生きとしている。地図が定まらなくても心を動かし続けるこのファンタジーに、私は感嘆しながら映画をあとにする。

参考資料

作品情報は以下の資料を参照しています。

  1. Howl's Moving Castle (2004)
  2. Howl's Moving Castle - GKIDS Films

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台湾出身で映画を愛するバリスタ、10eKokoroの映画ノートです。

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