『グッドモーニング,ベトナム』は、1965年のサイゴンで米軍ラジオを担当するDJ、エイドリアン・クロンナウアを描く。実在の人物の経験を自由に脚色した1987年の映画で、日本公開は1988年。バリー・レビンソンは戦場の英雄ではなく、兵士へ声を届ける仕事から戦争を見つめる。[1] [2]
マイクの前で解き放たれる笑い
ロビン・ウィリアムズの早口、声色の変化、ロックの勢いは、堅苦しい軍用放送を一気に解放する。冗談は命令する声を笑いの対象へ変え、聴く兵士にわずかな自由を与える。ただし、その自由は放送局の外まで保証されない。マイクの前の軽快さと街の緊張が、同じ時間に存在している。[1]
見事なのは、独演会のような話術を、人物の弱さにもつなげる演出だ。レビンソンは即興の複数のテイクを編集し、言葉の切れ味を生かす一方、周囲の人々との関係で主人公を立ち止まらせる。笑わせる力があることと、相手を理解できることは別なのだと、表情の変化が知らせる。[3]
軍のニュース検閲は、その隔たりをはっきりさせる。士気を上げる音楽は許されても、街で起こる出来事を伝える自由は制限される。放送の明るさが現実を隠す役割まで担うとき、主人公の反抗は単なる規則破りではなくなる。映画は、何を話すかと同時に、何を話させないかを問う。[1]
放送できない現実を、どう聞くか
一方で、ベトナムの人々を描く場面にも、米国人DJの成長を中心に組み立てる限界がある。英語教室や交流は親しさを生むが、同じ冗談や善意だけで文化の距離は消えない。彼らの人生が主人公の学びへ回収されがちな点を意識すると、温かな喜劇のなかに残る非対称さも見えてくる。[3]
本作の魅力は、笑いを戦争への万能な答えにしないところにある。兵士を励ます声は必要でも、それだけで暴力や検閲を止めることはできない。話し続ける主人公が他者の現実に出会うにつれ、ユーモアは自分を守る芸から、人を気遣う行為へ変わる。その変化が、賑やかな映画に苦い余韻を与える。[3]
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
