ミシェル・ゴンドリー監督の『エターナル・サンシャイン』は、ひとつの切ない出来事から始まる。ジョエル・バリッシュは、クレメンタインがふたりの波乱に満ちた関係を記憶から消し去ったと知る。彼も同じ驚くべき処置を受けることにし、映画は、ひとが感情を生き抜くのではなく消し去ろうとするとき、心のなかで何が起きるのかを追っていく。発想だけを聞けば、壮大なSFのようだ。しかしゴンドリーが描くのは、あくまで親密な世界である。重要なのは装置ではなく、その奥にある怯えを帯びた、ごくありふれた願いだ。痛みをきれいさっぱり消したいという願い。
不安定な部屋から組み立てられる記憶
この映画の優れた視覚的アイデアは、記憶とは建築の具合が悪い場所だということだ。部屋は崩れ、通りから人影が消え、顔はフレームの端で見えなくなり、ジョエルは物理法則よりも感情に従う風景のなかを走る。ゴンドリーの手作りの効果は、こうした変化に手触りのあるぎこちなさを与える。セットやワイヤー、動かされるカメラの存在が感じられる。その作りものらしさこそが強みだ。記憶は磨き上げられたデジタルの記録庫ではなく、見ているあいだに組み立てられる、壊れやすい演目のように思えてくる。
ジム・キャリーとケイト・ウィンスレットが、この映画の難しいバランスを支えている。キャリーはジョエルの控えめな性格を、聖人君子のように見せることなく表現する。彼の沈黙には優しさと、身を引く習慣の両方がにじむ。ウィンスレットのクレメンタインは、行動が早く、愉快で、気分が変わりやすく、ときには疲れさせもする。それでも、その演技は彼女を派手な髪色の自由奔放な女性という型に押し込めない。ふたりの相性はなめらかではない。ぶつかり、傷つけ合い、ときには苛立たせる。その摩擦のおかげで、この恋愛は観察されたものとして感じられ、観客を安心させるために設計されたものにはならない。
ジョン・ブライオンの音楽と音響設計は、映画の不安定なリズムをいっそう深める。音楽は、すでに薄れかけている思考のようにふいに訪れる。一方、足音や部屋の環境音、そして突然の空白が、想像のなかの空間に身体性と切迫感を与える。編集は、巧妙さを見せるためだけに時系列をかき乱すのではない。感情の認識を手がかりに、観客を時間のなかへ導いていく。説明的な台詞なら平板にしてしまう情報を、ひとつのカットや視線、光の変化に託すところがとりわけ好きだ。この映画の優しさは、途切れ途切れの瞬間から形づくられている。
夢の論理が残す痕跡
とはいえ、この映画の創意は、ときに登場人物を、そのアイデアほど複雑ではない存在にしてしまう。物語の中心にある処置は倫理的に不穏だが、周囲の世界は軽く描かれているため、その影響はしばしば社会的なものではなく、個人の問題にとどまる。また、脇役のなかには、ひとりの人間として十分に描き込まれるより、映画の主張を広げる役割を担っている人物もいる。さらに、クレメンタインの気まぐれなところは鮮やかに演じられているものの、ときにジョエルの傷つきやすさを説明する都合のよい理由になりかねない。こうした限界が作品の価値を損なうわけではない。ただ、夢の論理がどこで恋愛を守っているのかを示してはいる。
心に残るのは、苦しみは本当は良いものだという教訓でも、変わらずにいれば愛を保てるという主張でもない。人間は、都合の悪いほど連なり合うものからできている――喜びのそばには気恥ずかしさがあり、驚きのそばには繰り返しがあり、欲望のそばには後悔がある。そうした穏やかな主張がこの映画にはある。『エターナル・サンシャイン』は、幻想的な技術をそうしたありふれた矛盾へと向け、答えを出さないまま終わる。その抑制のほうが、整った答えよりも心を動かす。忘却は決して完全に中立ではないと認めながら、すべての傷が知恵に変わるわけではないことも、この映画は心得ている。
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
