『デモーテル/死の舞踏』は、原題Dellamorte Dellamore、英語圏題Cemetery Manとして知られる1994年の作品だ。BFIはイタリア、フランス、ドイツの合作映画として記録し、監督をミケーレ・ソアヴィ、出演をルパート・エヴェレットらと記載している。作品の軸となるのは、蘇生する死者をめぐるゴシック喜劇と、孤独の寓話との重なりである。恐怖と笑いは互いを打ち消すのではなく、死が日常となった世界の異様さを別々の角度から照らす。そのため、怪異の刺激だけを求めると、この映画の乾いた感触を取り逃がす。[1]
墓地を満たす黒いユーモア
墓地番フランチェスコの仕事は、眠りを破って戻る死者を再び静かにすること。Film at Lincoln Centerが紹介する通り、入口はゾンビ映画の手触りを持つが、そこに恋愛の幻影と乾いた笑いが重なる。物語を先へ急がず、異なるジャンルの温度を同じ画面に置く発想が面白い。死者への対処が仕事として語られることで、異常な出来事と日常の務めとの境目が曖昧になる。一方、恋愛の幻影は、その反復に別の期待を持ち込む。怖さから可笑しさへ、さらに寂しさへと受け止め方がずれるため、観客は安心して一つの感情に留まれない。[2]
ゴシックな墓石や霧の気配は、陰鬱さだけでなく舞台装置めいた可笑しさも帯びる。墓地の構図を形づくるそれらは、死の重みを伝えると同時に、画面を作り物めいた空間として意識させる。その二重性が、恐怖を単純な現実感へ結びつけない。ソアヴィの画面は、死の場所を現実から少し浮かせ、鮮やかな色と不穏な空間の切り替えでフランチェスコの認識を揺らす。色の鮮やかさも解放感とは限らず、陰鬱な場所との隔たりが、見る者の落ち着きを奪う。BFIが本作を欧州ホラーの選集に置く理由は、この異様な混成感にある。[3]
音響もまた、恐怖を膨らませるより、場違いな軽さと沈黙を交互に置く。軽さは緊張をほどくが、続く沈黙はその安堵を長続きさせない。笑える瞬間の直後に空白が残り、観客は死者よりも、生の側にある倦怠を意識させられる。ここでは音が途切れたあとの時間も、笑いの後味を決めている。編集のテンポは場面ごとに大胆で、快調な飛躍が魅力である一方、後半は断片性が勝ちすぎる。飛躍は異なる感情を鋭く隣り合わせにするが、人物の変化を受け止める時間まで短くしてしまう。意外性を生むリズムが、同時に感情の連続を弱めるという難しさがある。
笑いのあとに残る孤独
ルパート・エヴェレットは、冷めた職務意識と抑えきれない孤独を大きな身振りに頼らず演じる。その抑制が、周囲の奇妙さを単なる悪ふざけにしない。感情を強く示さないからこそ、職務として死者に向き合う態度と、孤独を抱える人物の内面との隔たりが見えてくる。観客と人物との距離も、すぐに共感へ縮まるのではなく、冷淡さの奥にある寂しさを探る距離として保たれる。フランチェスコが死者を扱うほど、生者との距離が測れなくなるという逆説が、喜劇の底に静かに沈んでいる。怪異に対処できることと、人と関係を結べることは、ここでは別の能力なのだ。
完成度が均一な作品ではない。奔放な着想が連続するため、人物の感情や出来事の因果を追う楽しさは途中で薄れる。断片同士の響き合いを楽しめても、それが人物への理解を十分に深めるとは限らない。それでも、墓地を恐怖の背景ではなく、愛着と倦怠が同居する生活空間へ変えた手つきは印象深い。そこでは死者の蘇生も、生活を破る異変であると同時に、生活から逃れられない感覚に結びつく。笑いが死の重さを消すのではなく、重さとともに暮らす疲れを浮かび上がらせる。死を笑いに変えながら、最後に残るのは不死への憧れではなく、現実へ戻れない人の寂しさだ。
参考資料
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