『恋する惑星』の好きなところは、心の揺らぎを、肌で感じられる空気へと変えているところだ。ウォン・カーウァイが描く香港は、人であふれ、蛍光灯に照らされ、絶えず動き続けている。それでも登場人物たちは、その只中でほんのひととき立ち止まっているように見える。映画は、ゆるやかで、どこか遊び心のある構成を通して、別れをどうにかやり過ごそうとしながら、その先に何をすればいいのかもよくわからない二人の警官を描く。彼らの孤独は、壮大な悲劇として示されることはない。不器用で、おかしくて、ありふれたもの――街での何気ない出会いにさえ潜んでいるような感情だ。
ふたつの物語、ひとつの落ち着かない街
二部構成こそ、この映画の本質を最もよく表す選択だ。緻密に組み立てられたひとつの恋愛物語へ向かうのではなく、ウォンはひとつの物語をもうひとつの物語に響き合わせ、ムードや仕草に両者をつなぐ役目を委ねる。前半には犯罪映画のような神経質な活気があり、後半はもっと軽やかで、どこか落ち着かない喜劇へと漂っていく。この変化は唐突に感じられることもあるが、それが映画に脈動を与えている。人と人とのつながりは、整然とした筋書きによって訪れるのではない。別々のリズムがたまたま重なったとき、ふいに姿を現す。
映像の面では、『恋する惑星』は、せわしなさを親密な感覚へと変えている。クリストファー・ドイルのカメラは、ぶれて流れる身体、にじむ光、そしてプライバシーなどほとんど望めない窮屈な室内をとらえる。あの印象的な流し撮りは、単なるおしゃれな飾りではない。人が立ちすくんでいても時間だけは進んでいく場所として、街を映し出すのだ。ウォンはまた、食べ物の容器や鍵、歌といった小さなものが持つ表現力もよくわかっている。人をつなぎとめておくのが難しいとき、物たちは一時的な連れ合いになる。
音楽は、映画にもうひとつの感情の骨組みを与える。繰り返し流れる曲は、ただ「こう感じてほしい」と告げるのではない。戻ってくるたびに変化し、登場人物や部屋のまわりにさまざまな連想を積み重ねていく。フェイ・ウォンの存在がとりわけ印象的なのは、いたずらっぽさと距離感を同時に演じているからだ。トニー・レオンは警官の役に、優しく、少し滑稽なほどまじめな趣を与える。金城武は、恋に夢中になった自己中心性を、コミカルでありながら傷つきやすいものとして見せる。ポップな表面の下にある人間味を、こうした演技が支えている。
スタイルが限界に触れるところ
それでも、ときに映画の魅力が登場人物を追い越してしまう。様式化されたモノローグや風変わりな振る舞いは、感情の帰結を掘り下げるより、その手触りを味わうよう観客を誘う。とりわけ前半の女性たちは、十分に内面が明かされることなく、意図的に謎めいた存在にとどまる。その謎は、複雑さというより、男性の視線に与えられた特権のように感じられることもある。ゆるやかな構成のため、感情の糸が宙に残されたままになることもある。映画が未完であることを主題の一部にしているとしても、これらは確かな限界だ。
心に残るのは、束の間の出会いも、永続する答えにならなくても大切なものになりうるという、ウォンの信頼だ。『恋する惑星』は、失恋が知恵をもたらすとも、欲望によって人が一貫した存在になるとも約束しない。代わりに、仮のもののなかに優しさを見いだす。深夜の食事、誰かと分かち合う歌、そして、やがていなくなるかもしれない人によって静かに変わる部屋。映画の自由さは伝染するが、そこにある警告もまた心に残る。動き続けるものは、こちらの準備ができる前に前へと運んでいくことがある。そして、ときに変化はそこから始まる。
参考資料
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