『ブレードランナー』はしばしば未来のビジョンとして紹介されるが、この映画の力は、その呼び名を徹底して疑うところにある。リドリー・スコット監督による1982年のオリジナル劇場公開版では、疲れ切った刑事が、雨に濡れたロサンゼルスを歩く。そこでは、人工的につくられた存在たちが人間の監視下で街を行き交っている。筋立ては追いやすいほど簡潔だが、雰囲気は次々と広がっていく。どの廊下も、誰がここに属する権利を持つのかと問いかけ、どの顔もどこか借り物のように見える。そうした問いをきれいに解決せず、宙づりのままにしておくとき、私はこの映画に最も心を動かされる。
天候と記憶から築かれた都市
この映画の大きな主役は都市だ。スコットは蒸気、ネオン、広告、狭苦しい室内を街に満たし、天候そのものが建築になったかのような気配を漂わせる。映像は豪華だが、心地よくはない。美しさの下には、爪の間に入り込んだ汚れがある。ヴァンゲリスの音楽は、電子音の壮大さと、孤独でサックスを思わせる哀愁のあいだを揺れ動き、この矛盾を深めていく。映像と音が一体となり、カメラが足を踏み入れる前から、人々の暮らしが染みついているような世界をつくり出す。説明よりも手触りや視線、積み重なりすぎた歴史の重圧によって築かれたSFだ。
ハリソン・フォードは、容易に英雄らしさへ傾かない、警戒心を帯びた身体の動きで刑事を演じる。彼は仕事にうんざりしているように見え、映画はその疲労が他者を見る目に影響することを巧みに受け入れている。彼を取り巻くレプリカントたちは、単純な脅威として描かれてはいない。彼らの演技には焦燥、恐怖、遊び心、そしてありふれた経験への驚くほど強い渇望が宿る。ルトガー・ハウアー、ダリル・ハンナ、ショーン・ヤングは、教訓めいた話にしてしまうことなく、人工的な存在に感情の切実さを与える。彼らの演技によって道徳的な区分は揺らぎ続け、そこにこの映画の人間らしさが息づいている。
この映画ならではの達成は、その不確かさにある。ハードボイルド探偵小説の語り口、影、追跡を借りながら、そうしたお約束を少しずつ信頼できないものに変えていく。情報は断片的に差し出され、中心となる捜査も、事件を明らかにするというより、捜査する者の限界をあらわにするように見える。その抑制が、観客を作品に参加させる。私はただ結末を待つのではなく、どのような記憶や欲望、共感を信じるに値するのかを考える。曖昧さは、最後の場面まで先送りされた謎にすぎないのではなく、ひとつの雰囲気になりうる。『ブレードランナー』はそれを理解している。
映画の距離感が限界に変わるところ
それでも、この映画の距離感は壁になってしまうことがある。女性たちはしばしば男性の不安を通して描かれ、劇場公開版の説明的なナレーションをはじめ、ノワール映画の身振りのいくつかは、それ以外の点では興味深く曖昧な世界を平板にしてしまう。物語の感情的な緊張が高まるべきところで、テンポが散漫になることもある。これらは無視できない限界だが、映画を退ける理由ではない。作品がスタジオの期待と、より捉えがたいビジョンとのあいだで揺れていることを示すと同時に、静かで風変わりな選択をいっそう貴重なものにしている。
私の心に残るのは、機能として扱われる存在たちへの、この映画の思いやりだ。生き方について明快な指針を示すことも、未来をうらやましいものに描くこともない。その代わり、権力がいかにあっという間に他者をひとつの分類へ押し込めるかを見つめ、その習慣を何が断ち切りうるのかと問いかける。冷ややかで、ロマンティックで、ときにいらだたしくもあるが、決して空虚ではない。『ブレードランナー』は予言というより、夜のなかで見つめることについての思索のように感じられる。都市を、人工的につくられた顔を、そして最後には、自分自身のまなざしの奥にある思い込みを見つめるのだ。
参考資料
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