成人向けの題材を含む作品を扱う評論です。性的題材は映画史と映像表現の文脈から非露骨に論じています。
一九六五年六月九日に初公開された『黒い雪』は、武智鉄二が脚本と監督を兼ね、第三プロダクションが製作、日活が配給した作品である。前年の『白日夢』で知られた作家が、横田基地周辺の売春宿を舞台に、占領の記憶と日常の欲望を同じ画面へ押し込んだ。これは後年の日活ロマンポルノへ直線的につながる作品というより、独立系の「ピンク映画」が政治的異議を露出させた時期の一作として捉えるべきだろう。題名の「黒い雪」は、基地の上空から降り続く軍事の影を、個人の生活に積もる歴史として読むための比喩になる。[1]
基地の風景と音響
画面は横田基地のフェンス、粗末な仮設建築、狭い室内を反復して配置し、人物がどこへ移動しても軍事施設の輪郭から逃れられない構図をつくる。母の経営する宿、叔母の店、運転手の家は、それぞれ別の生活空間に見えて、駐留軍の金と権力によって同じ経済圏に結び付けられている。青年次郎が静江の「純粋さ」に惹かれる展開も、単純な恋愛の救済ではない。彼の視線は女性を二つの類型へ分け、基地に適応した者と、まだ汚されていない者を対置してしまうからだ。その視線自体が、作品の批判対象である所有と序列を再生産する。[2]
音響設計は、この映画の政治性を最も直接に伝える。頭上を裂くジェット機の轟音は単なる背景音ではなく、会話や沈黙を中断し、基地が生活の時間を一方的に占有していることを告げる主旋律である。室内の親密な場面であっても、遠くから迫る機械音が空間を軍事化し、人物の感情を個人の内面だけに閉じ込めない。武智が裁判でジェット音を「アメリカの侵略」と結び付けたと伝えられることを踏まえると、音は説明台詞を代行する宣言ではなく、身体が先に感じる政治として働いている。映像が基地の境界を見せ、音がその境界を越えてくるため、観客は占領を風景と聴覚の双方で経験することになる。[2]
物語は次郎の怒りを英雄的な反抗へ整えず、被害と加害が連鎖する不安定な軌道として描く。母は基地に依存して商売を続け、叔母は駐留軍の権力に接近し、次郎はその矛盾を民族的な屈辱として受け止める。しかし彼が選ぶ暴力は、基地の政治を解体するどころか、家族内の支配と男性中心の所有欲を別の形で反復する。静江が基地の周辺で傷つけられ、逃走する場面も、彼女の苦痛を刺激的な見世物にするのではなく、国家・軍隊・男の連帯が弱い立場の人を押し出す構造として読む必要がある。母の終盤の叫びは、協力と抵抗の境界が固定されていないことを示し、被害者と加害者を簡単に分類する視線を揺さぶる。[1]
怒りの物語と検閲の映画史
形式面では、長いテイク、急なズーム、象徴を前面に出す演出が、洗練された写実よりも切迫した寓話性を選んでいる。アメリカ映画を見ているはずの場面でスクリーンそのものを映さず、銃声や英語の台詞に反応する人物の顔と、彼らのぎこちない動きへ視線を留める構成は、消費される映像と現実の暴力を重ね合わせる。編集の粗さや演技の振幅には、今日の基準から見れば説明過剰なところもある。だが、その不器用さは、基地・家族・性の商品化を一つの象徴体系へ急いで接続しようとした時代の焦燥を露呈する。女性をしばしば男性の政治的目覚めの媒介へ回収してしまう限界も含めて評価することが、作品を単なる反米的な奇作から、権力を批判しながら権力の視線も抱え込む映画へ引き戻す。[2]
公開後、表現の猥褻性をめぐって武智と配給側が刑事裁判に問われ、最終的に無罪となった経緯は、映画の内容だけでなく、誰が何を「わいせつ」と呼ぶのかという制度の問題を浮かび上がらせた。学生運動と日米安全保障条約の更新反対運動が広がり、五大映画会社の流通支配が揺らいでいた一九六五年に、本作は性表現の形式を借りて基地と検閲を同時に挑発したのである。だから『黒い雪』を成人向け作品という呼称だけで消費するのは不十分だ。政治的主張の単純さ、女性表象の危うさ、粗削りな映像の弱点を批判的に見据えながらも、ジェット音とフェンス、沈黙と暴力が結び付く独自の映画体験は失われない。性を口実に異議申立てを封じる制度への問いとして、また日本映画が基地の現実をどのように画面化したかを考える資料として、再評価に値する。[1]
参考資料
作品情報は以下の資料を参照しています。
