『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、魅力的な設定は出発点にすぎないと心得た映画の自信に満ちた足取りで進んでいく。観察眼があり、落ち着きのない10代のマーティ・マクフライは、風変わりなドク・ブラウンが作ったデロリアンに乗り、30年前へと投げ出される。設定はすぐに理解できるが、ロバート・ゼメキスはありふれた社会の規範と、ありえない機械がぶつかり合うところに、次々と新鮮な活気を見いだす。ここでのタイムトラベルは謎解きというより、人物の性格に加わる圧力だ。ルールは明快だが、決して単純ではない。
動きと細部から生まれるマシン
私が何より感心するのは、映像のリズムだ。デロリアンは単なる小道具ではない。磨き上げられた車体、ガルウィングドア、危険なほどの速度が、未来に見事な手触りを与えている。ゼメキスは、視線や人で混み合う画面、時計、写真、誰かの手が触れるのを待つかのような品々を通して、原因と結果を描き出す。大げさなギャグにも、鮮やかな視覚的なきっかけがある。世界が不用意な動きの一つひとつに正確に反応するからこそ、笑いが生まれる。カメラは、あらゆる遅れを電気が走るように切迫したものにする。
マイケル・J・フォックスは理想的な中心人物を演じる。反応が速く、魅力的で、少し圧倒されながらも受け身にはならない。マーティを、場の空気を読み取ってから自分の行動を決める人物として演じることで、その場しのぎの対応も英雄的というより人間的に感じられる。一方のクリストファー・ロイドは、ドク・ブラウンの大仰な身振りや驚きの叫びを、ひと目でそれとわかる集中力へと変えている。二人の友情には実際的な温かさがある。物語が二人にもっと劇的な役割を求める前から、彼らは協力し合う仲間なのだ。フォックスはまた、気恥ずかしさに軽やかで喜劇的なテンポを与えている。
この映画は、歴史を一連の作法として感じさせる点でも際立っている。1955年の描写は、ドキュメンタリーの過去というより明るく様式化されているが、その人工的な味わいは物語に役立っている。髪型や車、音楽、求愛の作法が、誰に発言が許され、誰が待つことを期待されているのかを示す、目に見える合図となるのだ。脚本は家族コメディ、恋愛、ティーンエイジャーの不安、SFの間を軽快に行き来する。中心的な面白さは、それぞれのジャンルがほかのジャンルのテンポを借りる様子にある。結果として、緻密に設計されているのに、機械のように冷たくは感じられない。
整いすぎた作品が見せる限界
とはいえ、整いすぎていることが限界になる場面もある。女性や何人かの年長者は、しばしばマーティの使命を取り巻く存在として配置される。また、脚本の冗談は1950年代の偏見を、長く重くのしかかる現実というより、手早く乗り越える障害として扱うことがある。運命の仕組みも同じように整然としている。正しい行動の順序さえ見つかれば、感情の問題まで解決できそうに見える。この単純さは、作品の懐の深い親しみやすさを支える一方で、独創的な機械仕掛けに比べ、社会への想像力を狭いものにとどめてもいる。いくつかの複雑さは、私たちの心を乱す前に和らげられてしまう。
心に残るのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が注意を向けることを英雄的な行為として描く、そのあり方だ。マーティは、パターンに気づき、意外な味方の話に耳を傾け、小さな選択が風景全体を描き直すことを理解することで切り抜けていく。アラン・シルヴェストリの音楽と勢いのあるポップ・サウンドトラックが映画を前へと押し進めるが、ひそやかな喜びは、油断のない表情や慎重に仕込まれた細部にある。過去から逃れられるからではなく、過去が応答する作品だからこそ、私はこの映画を楽しめる。その均衡が、作品の楽観主義に鋭さを加えている。
参考資料
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