リドリー・スコット監督の『エイリアン』は、商業宇宙船の乗組員たちが人工冬眠から目覚めるところから始まる。だが、物語がまず見つめるのは船殻の向こうで待ち受ける怪物ではない。労働だ。契約、手順、食卓を囲む時間、そして深宇宙でさえ企業の所有物なのだという、疲れ切った感覚。恐ろしくなる前の船に、ありふれた生活の手触りを与えているところが私は好きだ。恐怖は職場の中にやってくる。そこで好奇心と義務は、簡単には切り離せない。この選択のおかげで、舞台がありえない場所になっても、映画は地に足をつけている。
生きているような宇宙船
ノストロモ号は、この映画が描き出す最も雄弁なイメージだ。廊下は人間ではなく機械のために作られたように見える。湿った金属、点滅する計器、動くたびに身のこなしを考えさせられる低い天井。スコットは船を脈打つ迷宮として撮り、ジェリー・ゴールドスミスの音楽と機械のうなりが、沈黙さえ設計されたもののように感じさせる。H・R・ギーガーのデザインは、未知なるものに不穏な物質的論理を与えている。それは明確に動物とも機械とも言えず、その両方の周囲で成長してきたかのような存在だ。美しさと嫌悪感が、同じ表面を占めている。
私の心に残るのは、この映画の忍耐強さだ。戸口やモニター、遠くの影が、こちらが落ち着かなくなるほど長く画面にとどまることがよくある。恐怖を生むのは絶え間ない襲撃というより、何がどれほどの大きさなのか分からないことだ。乗組員たちは、何が船に属し、何が信号に属し、計器が何を捉え損ねているのかを見分けられない。カメラは急いで私たちを安心させようとはしない。その抑制が、小さな発見のひとつひとつに不穏な余韻を残す。サスペンスは、衝撃を待つことだけでなく、耳を澄ますことになる。
リプリーを演じるシガニー・ウィーバーの演技がとりわけ効果的なのは、彼女がいきなり英雄になることを拒んでいるからだ。彼女は注意深く、実務的で、誰も守ってくれないかもしれない規則に、目に見えて縛られている。周囲のアンサンブルも、乗組員を単純な類型に押し込めることなく、疲労や摩擦を演じる。彼らの言い争いは、状況が言葉の及ばないものへと崩れていくなかで、なんとか仕事を続けようとする人々の会話に聞こえる。勇気とは、あらゆる手順が疑わしくなったあとも、その確認を続けることなのだと、この映画は知っている。
人間を置き去りにする空気感
それでも、『エイリアン』の人間関係は、空間の描写ほど豊かではない。何人かの乗組員は、内面を掘り下げるというより雰囲気を形づくる習慣や意見の食い違いによって描かれ、企業をめぐる対立も、示唆的ではあるが深く展開されることはない。私にとってこれは確かな限界だ。映画の雰囲気があまりにも完成されているため、登場人物たちが廊下に緊張感を運ぶために配置されたように見えることがある。それでも、この狭さは、制度の中で生きることへの映画の暗い見方にはふさわしい。そこでは個人が、容易に役割へと還元されてしまう。
『エイリアン』が今なお力強いのは、悪夢を説明するからではなく、不確かさに物質的な形を与えるからだ。蒸気、ゴム、息、警報、影がひとつの神経系の一部となり、リプリーの注意深さが、かすかな人間的対抗軸をもたらす。見せずにおくことは、見せ場よりも親密になりうる。そのことを理解している映画の節度に、私は感嘆する。人物の描写に物足りなさが残る部分はあっても、汚れて無関心な機械の中に閉じ込められた感覚は、驚くほど精緻に描かれている。その抑制は今なお、多くの大仰な宇宙ホラー映画よりも不穏だ。それでいて、自らの意図を声高に告げる必要はない。
参考資料
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