※このページは、こちらのFLASHを見た人を前提に書かれています。見てない人はまずはそちらをどうぞ。
FLASH見てくれてお疲れ様でした。
長すぎました。しゅみません・・・。ホントはアレの5倍くらい書こうと思ったんですけど、イヤガラセに近くなりそうなのでこちらのページを作りました。
杉原千畝さんの紹介は、FLASHにあった通りです。
第二次世界大戦時のリトアニアの外交官を務めていた方です。正確には、当時の満州国とソ連にも渡った経験のある方です。その経験と堪能なロシア語の才能を買われて、当時リトアニアに新設された日本領事館の代理領事に任命されました。
ただ、FLASHでは補足できなかった点を少し・・・。(少しじゃないけど)
もう一度書きますと、杉原氏は当時のリトアニアの外交官であって、よーするにリトアニア国内で「日本への渡航ビザ」を発給できる立場にあったんです。
その為に、ユダヤ人の人たちは杉原氏の元を訪れてビザ発給を求めたそうです。(何故杉原氏のトコロに来たのか?ってのは、同じリトアニア国内のオランダ領事館の人の薦めもあったそうです。この人もユダヤ人に友好的な人だったそうです。)
実際には、ユダヤ人の人たちの代表5人と話し合いをして、彼らの悩みを聞いたそうです。(その代表の中には、後のイスラエルの宗教大臣のバルハフィティック氏もいて、この人はのちに杉原氏と再会を果たした人物です)
杉原氏は一家でリトアニアに居住し、あの激動の時代を過ごしています。
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杉原氏一家と、当時のリトアニアの日本領事館のスタッフの人々の写真です。
一連のビザを配給するコトは、杉原氏だけでなく多くの人々の協力によって実現しました。
杉原氏は「ビザ発給の許可」を求める電報を日本本国に打診するも、本国の外務省は許可を出すことはありませんでした。
いろいろな理由(安全上の問題など)があるのですが、やはり日独伊三国同盟の影響ってのが大きかったと個人的には思います。
そして杉原氏はついに外務省の命令を無視してビザの発給を始めます。
FLASHを見て気になった人ももしかしたらいるかもしれませんけど、「日本通過のビザ」は杉原氏が発給できるけど、「ソビエト通過のビザ」はどうしたのか?って思われそうですが、そのビザの発給についても事前に杉原氏がリトアニアにあるソビエト領事館に話を掛け合って、都合をつけておいたそうです。(二つの領事館はとても近かったそうです。しかしこの時初めてソビエト大使館を訪れたそうです。)
ちなみにこの当時、日本とソ連はたてまえ上は敵対する関係です。(実際に直接は戦火は切られていませんが・・・)
当時のロシアの外交官であった人も、人の命を助けるという人道的な観点から杉原氏に賛同してくれた人だったことを書いておきます。(当時のソ連もユダヤ人にはあまり好意的な国ではありませんでした)
1940年前後のリトアニアの状況を少し説明しますと、杉原氏がビザを発給をした翌年にナチスドイツに一度占領されるも、1944年にソ連に併合される形で吸収されました。
その為、日本領事館には退去命令が何度も出されていて、リトアニアの他の国の領事館はとっくに閉鎖していた状況だったそうです。
杉原氏にソ連の危険が及ぶだけでなく、ユダヤ人を助けることによってナチスドイツからも目をつけられるかもしれない・・・と言う状況でもあったそうです。そんな命の危険をおかしてまで、杉原氏は約1ヶ月間ひたすらビザの配給をしました。
クリックすると拡大します。
※当時のヨーロッパ地図
リトアニアはポーランドの上に位置し、ポーランドを脱出したユダヤ人の多くが押し寄せたそうです。
ここでソビエトと日本通過のビザを取り、ナチスの手の届かない国へ出国しようとしました。
助けた人の人数について、FLASHでは「6000人」と書きましたが、外務省に残る正式な記録には「2139家族」とあるそうです。
ただ、発給当初は「ビザ発行の記録」と「手数料」を正式に記録してたそうですが、途中からは記録もお金も取ることもヤメ、とにかくビザの発給だけにつとめたそうです。なので、正式な数ってのはわからないと思います。
リトアニアを離れてから日本に帰国するまでの7年間については、ドイツ(東プロイセン)の日本総領事を勤め、その後にルーマニアの日本総領事館に赴任しています。
1945年になるとソ連の収容所に一年以上も収監されました。(この間に日本はポツダム宣言を受諾する形で敗戦します)
この間の杉原氏一家の生活はとても大変なモノだったと思います。後に夫人の幸子氏もそのことを本の中で書いています。ヨーロッパは第二次世界大戦のまっただ中ですから・・・。
そして1947年に日本に帰国。
当時の外務省に事実上の解雇通告をされたことについては、多くを語らなかったそうですがやはり悔しい思いもあったと思います。
(外務省を辞めた経緯については今でもあちこちで異論があるようですが、別にそんなコトはどうでもいいと思いますが、一応簡単に言いますと・・・。戦後の外務省の人員削減のリストラの一環として杉原氏は解雇されたのであって、ビザ発給云々は解雇理由には関係ないって言う人もいます。ただ、奥様である幸子さんは、「例の件」(ビザ発給のこと)が原因で解雇させられたとハッキリと言っています。仮にリストラの一環だったとしたら、ロシア語をペラペラに話し、あそこまでの経歴を持った杉原氏を職務上リストラするってコトは現実的におかしいと個人的には思います。会社で有能は人は解雇しないでしょう・・・。)
しかし、外務省の解雇などにも負けずに、その後の戦後の混乱期を越えました。その間は、リトアニアのビザのコトはあまり話さなかったそうです。
ロシア語の才能を生かし、今で言うところの商社(貿易会社)に勤めました。
そして、1968になってイスラエル大使館から電話がかかってきて、日本に参事官として赴任してきたニシュリ氏と再開します。
再会に28年もの歳月がかかったコトについては、杉原氏はユダヤ人の人たちに自分のコトを「スギハラセンポ」って名乗っていたそうです。漢字で書くと「杉原千畝(ちうね)」。日本人でもムズカシイ漢字なので、それを音読みしてセンポと名乗っていたそうです。
なので、杉原氏の行方を捜す際も「センポスギハラはどこですか?」と探していたために、再会までに長い時間がかかったって言われてます。
外務省にも問い合わせていたそうですが、「スギハラセンポなる人物はいません」と断られたそうです。ちょっと調べればわかるのに、いかにもお役所っぽいのは昔からだったようです。
ちなみに、海外のサイトなどでは今でも愛情とひたしみを込めて「senpo」と多くの場所で書かれています。
そして1985には、イスラエル政府より「ヤド・バシュム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を授与されました。
この賞は、簡単に言ってしまうとユダヤ社会におけるノーベル平和賞のようなモノだと思います。ユダヤに貢献した外国人に授与されるそうです。
この頃になると、杉原氏の行った活動は全世界に知れ渡るようになって、アメリカ、ドイツなどからも賛辞の声が寄せられるようになり、外務省を解雇された経緯についても日本の外務省を非難する声などもあったそうです。
このコトに対し、当の杉原氏は「騒がれるようなことをしたのではない。あくまで私の意志である。これでよい・・・」とホントに謙虚に話していたそうです。
そして1986年、86歳で亡くなりました。
亡くなった時は世界中から弔電が寄せられたそうで、杉原氏が多くの人に愛されていたのがよくわかるような気がします・・・。
亡くなった後も賛辞の声は止まず、アメリカでも1989年に「勇者に与える賞」を授与されました。
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※勇者に与える賞
※リトアニアでの杉原氏をテーマとしたメダル
一連の舞台となったリトアニアでも、杉原氏の行動を記念するために「スギハラ通り」が出来たり、写真のようなメダルも作られました。
リトアニアでは、このような彫銀などの工芸が盛んだそうです。
杉原氏の生まれ故郷である岐阜県の八百津町でも「人道の丘公園」が作られ、杉原氏の勇気ある行動を後生に伝えています。
日本の外務省については、1992年になってやっと正式に杉原氏の名誉回復を宣言しています。(当時、宮沢喜一さんが総理大臣の時。正確には、「当時杉原氏の行動を咎めた記録はない」って旨も言ったそうですが、その辺の真偽については今でも不明です。外務省は自身の歴史を歪曲させて美化させている・・・とかいろんな意見があるそうですが、当の杉原氏が生きていたら、おそらく苦笑いをしたでしょうネ。そういうコトは本質の問題ではないですから。杉原氏の勇気があったからこそ、多くの人の命が救われた事が重要ってことを、後生の人間が理解してくれればそれで良いと天国で思ってるんじゃないでしょうか・・・。)
ま〜あまりにも遅い名誉回復宣言のことなどもあって、日本ではあまり杉原氏のコトを知らない人が多いのも事実です。この機会に知ってもらえれば良かれです。
ただ、当時の日本の外務省を悪の根源みたいに書きましたけど、日本に渡ってきたユダヤ人をナチスに引き渡さなかったのも事実です。
ま〜戦中の混乱もあったと思いますが、そのおかげで日本を通り脱出することが出来たそうです。脱出と言っても、終戦まで日本にいた人も多いそうです。(一部では、ユダヤ人の賢い才能を使って戦局を好転させよう、と利用を企むなんて話もあったそうですが・・・。実際には何もなかったようです)
命からがら何も持たずに日本に来たユダヤ人に対して、当時の赤十字や日本国内のキリスト教の組織などが丁重に迎入れたそうです。
最後に・・・
杉原氏の勇気ある行動と、戦争における美談だけを掻い摘んでお話しするような感じになりましたが、その裏ではナチスドイツのホロコーストが行われ、リトアニアにおいてもビザ発給が間に合わずに多くの人がナチスに捕らえられ、そのほとんどが虐殺されてしまった事実と、亡くなった人のことを忘れないで下さい。
現代でも人種がどうとか、それに基づく杉原氏の行動に対するさまざまな意見もありますが、大切なのは実際に助けられた人がいたことでしょう・・・。
杉原氏の活動に関しては、当時の世界情勢などを知るといろいろな見方があるのも事実です。
ただ、何十万人が亡くなった時代に彼らを助ける事が出来たのは杉原氏だけであり、それを行った勇気というものは尋常では計り知れないものだったと思います。
未来を見つめて行きましょうってコトです。きっと杉原氏もそう思ってるに違いない・・・。
参考文献
・六千人の命のビザ 杉原幸子著 (杉原氏の奥様です)
関連リンク
・杉原千畝 生誕100周年記念事業
・八百津町ホームページ 杉原千畝記念館 (杉原氏の生まれた町です)
・人道の丘 杉原千畝Net記念館 (office21さんの個人のページです)
・杉原千畝 Wikipedia
(英文)
・Visas for Life
・The Sugihara Project
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